2025年10月20日月曜日

講演レポート トークイベント「詩人 永瀬清子の誕生 現代詩の母・永瀬清子は、名古屋で詩人になることを決意した」

 2025年10月19日(日) 

名古屋市・イーブルなごやにて、 

トークイベント「詩人 永瀬清子の誕生  現代詩の母・永瀬清子は、名古屋で詩人になることを決意した」を開催しました 



講師は、三田村博史氏(中部ペンクラブ顧問、あいち文学フォーラム顧問



白根直子氏(赤磐市教育委員会学芸員



山下達治氏(あいち文学フォーラム代表



 

以下は講演の内容の抜粋です。 

 

永瀬清子の誕生と名前の由来・・・産まれたのことを、母親が日記に残している。永瀬清子は本名ではなく、「永瀬清」戸籍の名前。安、清、房、政の中から、生家の近くにあった和気清麻呂の塚がある所から「清」と名付けられた。 

 

子どもの頃から本を読むのが好きで、小学生の時は石川県立図書館に通っていた。石川県立第二高等女学校に通っている時は、北原白秋や斎藤茂吉などの短歌を好んで読んでいた。婦人画報に投稿した短歌が与謝野晶子に選ばれた。その年の秋に、名古屋へ転居した。 

 



妹の看病のごほうびに、上田敏詩集を買ってもらった。詩に感銘を受け、自分の気持ちを表現できる詩人になることを志す。詩を書くにはもっと勉強しなくてはならない、ということから、愛知県第一高等女学校(現在の明和高等学校)英語部に進学した。 

 



勉強のきっかけは、清子を応援した従兄の存在だった。従兄は若くして亡くなってまったが、当時の思い出が「春になればうぐいすと同じに」の中に従兄が京都帝国大学医学部に入学した祝いに訪れたカフェ・ライオンのエピソードが記されている。現在の中区役所前の雑居ビルの辺りか。 




 詩人の佐藤惣之助との出会い・・・雑誌「日本詩人」で詩の添削をしていることを知り、送った詩「コーヒーと進軍ラッパについて添削してもらう。詩人になる準備を着々と進めていった。 

 

・女学校を卒業した年の秋に結婚し、夫の仕事の都合で大阪へ転居した。大阪時代に詩集「グレンデルの母親」が発表された大阪に引っ越しても、名古屋の人々は清子を応援していた。「新愛知」「名古屋新聞」の記事に清子の記事が掲載された。 

 

・詩人として活躍していたが、どんな詩を書けばいいか悩んでいた時、宮沢賢治「春と修羅」を読み、自分が書きたい詩がどういうものか実感した。宮沢賢治にえることなく彼は亡くなってしまったが、宮沢清六、高村光太郎、草野心平、新美南吉、巽聖歌らが出席していた追悼会に出席して「雨ニモ負ケズ」が書かれた手帳の発見の現場にも立ち会った。 

 


・東京時代
には、神保光太郎の詩の出版記念会に、萩原朔太郎、北川冬彦(清子が師事していた)、丸山薫、木山捷平らと共に出席した。
 




 1940年、夫の会社の都合で、岡山の母の家へ帰ることになる。岡山空襲に遭うが、実家は空襲から免れたので、親戚や友人が避難してくるのを受け入れながら終戦を迎えた。その年の秋に生まれ故郷の豊田村松木へ帰り、農地改革により戻った三反の田を借りて、初めての農作業に取り組む。その中から、多くの詩が生まれた。 

 

・戦後、国立ハンセン病療養施設・長島愛生園と邑久光明園の入所者と、詩作を通じた交流を40年続けた。その後も、校歌の作詞、同人誌「黄薔薇」の創刊、アジア諸国会議に出席、家庭裁判所の調停委員、世界連邦運動協会の事務局員などに務めながら、詩人として生涯現役を貫いた。 

 

・名古屋に住んでいた時期は5年だったが、非常に密度の濃いものだった。「名古屋に来てはじめて私の近代ははじまったと云える。」第一高女の教育水準は非常に高く、清子は地理や歴史なども英語で学んだ。 




 

・新発見の資料「感傷についての一考察」について、熊谷誠人(安城学園高校校長)による解説 



・茨木のり子の
ペンネームの由来について永瀬清子 短章集「流れる髪」にある「腕なき鬼」の文章との関連・・・ラジオの謡曲「綱館」の女茨木聴いて採用した、と同人誌「櫂」に書かれており、どこかで関連しているのでは。
 

 



「春になればうぐいすと同じに」かつての名古屋文学作品に描かれた、非常に珍しい作品彼女の父親は優秀な電気の技術者で、当時名古屋の電源開発の事業を進めていた福沢桃介の大同電力に招かれ、名古屋へ移った18歳になった清子は新設された第一高女に通った。 

 

・「あけがたにくる人よ」は、美智子妃殿下に伝わり、清子は東宮御所に招かれた。美智子さまが英訳され朗読もされた。 

永瀬清子の書籍はあまり書店では見かけない。教科書に採用されたのが最近のことなので、まだ知名度は低い。素晴らしい詩がとても多いので、今回のイベントをきっかけに多くの人に知れ渡ってほしい。 

 

 



講演の合間に、NAOの会による朗読がありました 

以下、詩の抜粋 

 

降りつむ 

<かなしみの国に雪が降りつむ かなしみを糧として生きよと雪が降りつむ 失いつくしたものの上に雪が降りつむ> 

 


コーヒーの進軍ラッパ ─ 小さきインテリの一人はうたへる ─」 

<かくて私は一日を出かける。 長いスタッキングをそろへ 鈴蘭の花のやうに並んで 友は朝の空気をけつてゆくが お嬢さんたちよ 私は知つてゐますよ 華やかで賢さうで蝶のやうに軽やかでも 貴方がたの内はどんなに空虚の部屋であるか。> 

 



 

春になればうぐいすと同じに 

<父は喜んでお祝いに彼と私ら姉妹をつれて夕方 カフェ・ライオンの定食をおごってくれた。 もう夜も暖かくなっていて、あとで栄町の夜店をひやかし おしまいに植木屋でヒヤシンスを幾株か買った。 帰ると月あかりで庭に仮植し するとそこらはいい匂いで一杯になったのだ。> 

 



 

諸国の天女 

<人の世のたつきのあはれないとなみ やすむひまなきあした夕べに わが忘れぬ喜びを人は知らない。 井の水を汲めばその中に 天の光がしたたつてゐる 花咲けば花の中に かの日の天の着物がそよぐ。> 

 



 

田と詩 

<私の詩は農繁期に最も多く降ってくるのだ。 しばらく田へ出ないでいると何も書けなくなるのだ。> 

 

 

あけがたにくる人よ 

<あけがたにくる人よ ててっぽっぽうの声のする方から 私の所へしずかにしずかにくる人よ  一生の山坂は蒼くたとえようもなくきびしく 私はいま老いてしまって ほかの年よりと同じに 若かった日のことを千万遍恋うている> 

 



 

会場は70人以上が聴講されていました。 

 



永瀬清子の作品と人柄を深く掘り下げ、彼女の詩の奥ゆかしさと普遍性を感じたトークイベントでした。