2025年10月19日(日)
名古屋市・イーブルなごやにて、
トークイベント「詩人 永瀬清子の誕生 現代詩の母・永瀬清子は、名古屋で詩人になることを決意した」を開催しました。
講師は、三田村博史氏(中部ペンクラブ顧問、あいち文学フォーラム顧問)
白根直子氏(赤磐市教育委員会学芸員)
山下達治氏(あいち文学フォーラム代表)
以下は講演の内容の抜粋です。
・永瀬清子の誕生と名前の由来・・・産まれた時のことを、母親が日記に残している。永瀬清子は本名ではなく、「永瀬清」が戸籍の名前。安、清、房、政の中から、生家の近くにあった和気清麻呂の塚がある所から「清」と名付けられた。
・子どもの頃から本を読むのが好きで、小学生の時は石川県立図書館に通っていた。石川県立第二高等女学校に通っている時は、北原白秋や斎藤茂吉などの短歌を好んで読んでいた。婦人画報に投稿した短歌が与謝野晶子に選ばれた。その年の秋に、名古屋へ転居した。
・妹の看病のごほうびに、上田敏詩集を買ってもらった。詩に感銘を受け、自分の気持ちを表現できる詩人になることを志す。詩を書くにはもっと勉強しなくてはならない、ということから、愛知県第一高等女学校(現在の明和高等学校)英語部に進学した。
・勉強のきっかけは、清子を応援した従兄の存在だった。従兄は若くして亡くなってしまったが、当時の思い出が「春になればうぐいすと同じに」の中に、従兄が京都帝国大学医学部に入学した祝いに訪れたカフェ・ライオンのエピソードが記されている。現在の中区役所前の雑居ビルの辺りか。
・詩人の佐藤惣之助との出会い・・・雑誌「日本詩人」で詩の添削をしていることを知り、送った詩「コーヒーと進軍ラッパ」について添削してもらう。詩人になる準備を着々と進めていった。
・女学校を卒業した年の秋に結婚し、夫の仕事の都合で大阪へ転居した。大阪時代に詩集「グレンデルの母親」が発表された。大阪に引っ越しても、名古屋の人々は清子を応援していた。「新愛知」「名古屋新聞」の記事に清子の記事が掲載された。
・詩人として活躍していたが、どんな詩を書けばいいか悩んでいた時、宮沢賢治「春と修羅」を読み、自分が書きたい詩がどういうものか実感した。宮沢賢治に会えることなく彼は亡くなってしまったが、宮沢清六、高村光太郎、草野心平、新美南吉、巽聖歌らが出席していた追悼会に出席して、「雨ニモ負ケズ」が書かれた手帳の発見の現場にも立ち会った。
・1940年、夫の会社の都合で、岡山の母の家へ帰ることになる。岡山空襲に遭うが、実家は空襲から免れたので、親戚や友人が避難してくるのを受け入れながら終戦を迎えた。その年の秋に生まれ故郷の豊田村松木へ帰り、農地改革により戻った三反の田を借りて、初めての農作業に取り組む。その中から、多くの詩が生まれた。
・戦後、国立ハンセン病療養施設・長島愛生園と邑久光明園の入所者と、詩作を通じた交流を40年続けた。その後も、校歌の作詞、同人誌「黄薔薇」の創刊、アジア諸国会議に出席、家庭裁判所の調停委員、世界連邦運動協会の事務局員などに務めながら、詩人として生涯現役を貫いた。
・新発見の資料「感傷についての一考察」について、熊谷誠人氏(安城学園高校校長)による解説。
・「あけがたにくる人よ」は、美智子妃殿下に伝わり、清子は東宮御所に招かれた。美智子さまが英訳され。朗読もされた。
永瀬清子の書籍はあまり書店では見かけない。教科書に採用されたのが最近のことなので、まだ知名度は低い。素晴らしい詩がとても多いので、今回のイベントをきっかけに多くの人に知れ渡ってほしい。
講演の合間に、NAOの会による朗読がありました。
以下、詩の抜粋
「降りつむ」
<かなしみの国に雪が降りつむ かなしみを糧として生きよと雪が降りつむ 失いつくしたものの上に雪が降りつむ>
「コーヒーの進軍ラッパ ─ 小さきインテリの一人はうたへる ─」
<かくて私は一日を出かける。 長いスタッキングをそろへ 鈴蘭の花のやうに並んで 友は朝の空気をけつてゆくが お嬢さんたちよ 私は知つてゐますよ 華やかで賢さうで蝶のやうに軽やかでも 貴方がたの内はどんなに空虚の部屋であるか。>
「春になればうぐいすと同じに」
<父は喜んでお祝いに彼と私ら姉妹をつれて夕方 カフェ・ライオンの定食をおごってくれた。 もう夜も暖かくなっていて、あとで栄町の夜店をひやかし おしまいに植木屋でヒヤシンスを幾株か買った。 帰ると月あかりで庭に仮植し するとそこらはいい匂いで一杯になったのだ。>
「諸国の天女」
<人の世のたつきのあはれないとなみ やすむひまなきあした夕べに わが忘れぬ喜びを人は知らない。 井の水を汲めばその中に 天の光がしたたつてゐる 花咲けば花の中に かの日の天の着物がそよぐ。>
「田と詩」
<私の詩は農繁期に最も多く降ってくるのだ。 しばらく田へ出ないでいると何も書けなくなるのだ。>
「あけがたにくる人よ」
<あけがたにくる人よ ててっぽっぽうの声のする方から 私の所へしずかにしずかにくる人よ 一生の山坂は蒼くたとえようもなくきびしく 私はいま老いてしまって ほかの年よりと同じに 若かった日のことを千万遍恋うている>
会場は70人以上が聴講されていました。