2024年1月24日水曜日

奥山景布子さん 文学講演会のお知らせ



奥山景布子 文学講演会

作者が語る『フェミニスト紫式部の生活と意見 ~ 現代用語で読み解く「源氏物語」 ~』

主催 あいち文学フォーラム

日時 令和6年3月17日(日) 午後2時~3時30分(受付開始午後1時20分~)

会場 ルブラ王山・弥生の間(地下1階)名古屋市千種区覚王山通8-18

地下鉄東山線「池下」2番出口から徒歩3分

会費 2,000円(予約申込の上、当日受付でお支払い下さい)先着100名様

申込 令和6年3月3日(日)までに下記の連絡先にお申し込み下さい。

連絡先 上中 090-7043-0159 応答できない場合、後で連絡します。

◎講演後、著書の販売とサイン会があります。


奥山景布子さんのプロフィール

名古屋大学大学院文学研究科博士課程修了。文学博士。

主な研究対象は「蜻蛉日記」「源氏物語」「とはずがたり」などの中世仮名文字。

小説家としては、2007年に「平家蟹異聞」で第87回オール讀物新人賞を受賞。

’09年、受賞作を含む『源平六歌撰』で単行本デビュー。

’17年度愛知県芸術文化選奨新人賞受賞。

’18年、『葵の残葉』で第37回新田次郎文学賞、

第8回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。

『元の黙阿弥』『葵のしずく』『やわ肌くらべ』『浄土双六』など著書多数。

近刊は『フェミニスト紫式部の生活と意見~現代用語で読み解く「源氏物語」~』、『ワケあり式部とおつかれ道長』。


2022年3月14日月曜日

奥山景布子 文学講座・作者が語る「流転の中将」

 

2022年3月13日(日)

名古屋市・ルブラ王山にて、あいち文学フォーラム主催イベント

奥山景布子 文学講座『作者が語る 流転の中将』を行いました。



2021年に刊行された『流転の中将』(PHP研究所)に、2017年に刊行された『葵の残葉』(文春文庫)と合わせて講演をされました。

〇『流転の中将』会津藩・松平容保(かたもり)の弟で、桑名藩主・松平定敬(さだあき)。

兄と共に徳川家のために尽くそうとしたゆえに、越後、箱館、そして上海にまで流浪した男の波乱に満ちた人生と秘めたる想いに迫る。

〇『葵の残葉』兄弟の誰か一人でも欠けていれば、幕末の歴史は変わった─。石高わずか三万石の尾張高須の家に生まれた四兄弟は、縁ある家の養子となる。それぞれ尾張藩慶勝(よしかつ)、会津藩容保、桑名藩定敬、そして慶勝の後を継いだ茂栄(もちはる)。幕末の激動期、官軍・幕府に別れて戦う運命に。埋もれた歴史を活写する傑作長篇小説。


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以下、要約と抜粋

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・流転の中将は、葵の残葉を書いているときに、これはもう一本書かないと完結しないという思いで書いた。

・徳川家康が天下人となり、江戸に幕府を開いて以来、世襲制となり、将軍家の血筋を絶やさないため必要な知恵が、分家をつくること(尾張、紀州、水戸の御三家)。

・最後の将軍・徳川慶喜は、毀誉褒貶のある人で、判断の正しいことをしたと思う側面があるが、まわりの人を振り回した、という側面もある。作品内ではどちらかというと悪者として描いている。

・大老・井伊直弼は、諸大名が政治に口を出すのは良くないと考えていた。意見を述べようと思って、呼ばれもしないのに江戸城に登城した慶勝を、やってはいけない押しかけ行為だとして、隠居・謹慎処分にした。この事件が、のちの安政の大獄の発端となった。

・治安の悪くなった京都で、幕府の意見を代表して力を振るうべく、一会桑体制(一橋・会津・桑名)が確立された。そして、長州征伐の総督として慶勝を任命した。慶勝は、海外の事情に精通しており、内戦をしている場合ではないので、戦乱を起こさず穏便に済まそうと考え、薩摩藩の西郷隆盛に協力を仰いだ。だが慶勝の考えは、長州を征伐したい一会桑の考えと相容れず、慶勝は一会桑と袂を分かつこととなった。

・鳥羽伏見の戦いで不利を感じた慶喜は、軍艦・開陽丸で江戸へ容保と定敬とともに、極秘で逃げた。ここで慶喜が退かなかったら、激しい内乱に発展していたかもしれない。しかし、逃げるつもりがなかった容保と定敬にとっては、非常に不本意であった。

・慶喜が逃げたことを知って勢いづいた新政府軍は、一会桑を含めた幕府方の重役たちを朝敵(賊軍)に指定した。それに伴って、桑名城陥落の命令が下された。距離が近いため、惣宰(そうさい)酒井孫八郎は、定敬不在のなか家名存続のため恭順を決定した。



・一会桑と内通しているのでは、と朝廷に疑惑の目を向けられた尾張藩は、恭順の意を示すため、尾張徳川家史上最大の悲劇「青松葉事件」を引き起こす。旧幕府派の家臣14人を粛清した。この事件はこれまであまり語られることはなく、名古屋城に青松葉の碑があるが、ほとんど知らずに素通りされている。

・なぜ新政府軍は、旧幕府側の抵抗を受けず、たやすく京から江戸まで行けたのか?それは尾張藩が、迷っていた諸藩に使者を送って、新政府側に従っていることを伝え、攻撃しないことを誓うよう、七百五十通におよぶ勤王証書を募った。だから、新政府軍は争いなく無血開城を成し遂げた。

・定敬は、抗戦を胸に秘めつつ、会津→柏崎→箱館→横浜→上海と流転を続けた。朝廷にも幕府にも忠誠を尽くしたのに、なぜ自分は朝敵とされているのか理解できなかったのではないか。

・惣宰の酒井孫八郎は、当時のことを克明に日記に残しているが、定敬が横浜に着いてから約三週間、何も記述がない。どこで何をしていたか、誰も語っていない。作者はとある仮説を立てて、その仮説に従って書いた。妄想ではなく、あらゆる説の中のひとつを採用して、小説として書いた。







〇質疑応答

・定敬が平民への転籍を願い出た理由は?

─いろいろ考えがあるが、流転している中で、庶民の生活を見て、もう少し自由に行動したい気持ちがあったのではないか。

〇福島で定敬の足跡を訪ねてみたい。

─桑名藩士が戦いに参加した碑は残っているが、定敬がどのような動きをしていたかは、わかる時とわからない時のものがあるが、あちこち移動していたことは間違いない。

〇城山三郎「冬の派閥」で描かれた青松葉事件と、奥山先生の作品との関わりは?

─最初のきっかけは、NHKの番組で慶勝のことを知ったことで、それまでは幕末を作品に扱うことに抵抗があった。しかし、慶勝のことを知ってから、小説に書きたいと思うようになった。知人に「冬の派閥」を頂いてから、徳川美術館で取材することになった。幕末の史料は、慶勝の写真技術など、現在でも新しいものが発表され、わかってきたものがある。そこも生かして新しい形に書き換えるのも、私の使命だと考えて書いてきた。

〇名古屋が明治以降、取り残されたような状況にあるのは、慶勝の態度にあるのでは?

─慶勝の決断は、後に大きな禍根を残し優秀な人材を失って、家中の雰囲気も重くなった。やむを得ないことだが、尾張にとっては痛手だったのでは。その中でも救いなのは、定敬が出頭した後、茂栄と慶勝が、定敬の身の上を心配する書状を送りあっていたこと。お家騒動で争ったが、家の上に立つという立場にあって、色々なことを吞み込んでいかなければいけないと考えていたのだろう。大きな犠牲があったが、明治政府ではあまり重職に就いている人がいないことへの後ろめたさが、取り残された理由なのでは。





2019年12月15日日曜日

文学イベント「南吉さんに会いに来て!」

2019年12月14日(土)



名古屋・東別院イーブルなごやにて、文学イベント「南吉さんに会いに来て!」を行いました。






第一部は、朗読劇「ランプの夜」。

演出は馬場豊氏(脚本家 生徒・母親・市民による種々の朗読劇の構成、演出)。











旅人「私はあまりにもたくさんのものをみました。あまりたくさんのことを知っているのです。あまりたくさんのことを知ると、人は悲しくなるものです。」

姉「つかれているんでしょう。」

旅人「つかれています。」

姉「ここでゆっくりしていらっしゃい。いまにお母さんが帰っていらっしゃいますから、そしたらお茶をさしあげます。」

旅人「え、でも、私はゆっくりできないのです。私はゆかねばなりません。」

妹「なぜそんなに急いでゆくの。」

旅人「なぜか知りません。私の心がゆかねばならないというのです。」








妹「ああ、びっくりした。だれなの、あんたは。」

泥棒「泥棒です。」

妹「あら、いやだ、自分で泥棒ですなんて。泥棒にしてもずいぶん、まぬけな泥棒ね。」

泥棒「そんなことはない。」

姉「あら、そんなことはないなんて。」






少年「さあゆこう。」

姉「ほんとうにもうゆくの?」

少年「え、さよなら。」

姉「またいらっしゃいね。」

少年「いいえ、もうきません。」

妹「どうして?さっきの旅人だって、泥棒だって、またくるっていったわ。」

少年「でも、ぼくはもうきません。」

妹「どうしてそんな悲しいこというの。」

少年「でも、あの子がもういないもん。」








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第二部は、文学講演会「新美南吉はなぜ故郷あいちを描いたのか?」

講師は遠山光嗣氏(新美南吉記念館学芸員 新美南吉研究家)。







新美南吉は、東京の学生時代に、築地小劇場に出たり、学生演劇のグループにも参加していて、演劇に関心が高かった。

安城の女学校の先生になって、学生に芝居をつくるときにも力を入れていた。





平成から令和になり、美智子さまに関連して南吉作品が取り上げられた。美智子さまは、平成十年の国際児童図書評議会の講演で「でんでん虫のかなしみ」を紹介された。

美智子さまは、声が出なくなる病気を乗り越えた後の講演だった。悲しい時、つらい時に心の支えにされた物語と受けとめ、それまであまり知られていなかった「でんでん虫のかなしみ」は一気に有名になった。






文学ならではの読解力、共感力を養えるという点で「ごんぎつね」は非常に適した教材であって、全国の国語教師に支持されている。しかし、実用文を読ませるべきだ、文学など役に立たない、と考える人にとっては「ごんぎつね」は悪弊のある文学教育の象徴にされてしまう。





なぜ南吉はふるさとを描くことにこだわったのか?単に郷土愛ではない、南吉ならではの理由がみえてくる。



南吉は今から106年前、大正2年(1913年)に、知多郡半田町岩滑地区に生まれた。本名は渡辺正八といった。南吉が4歳の時に母を亡くした。父が再婚をして、まもなく父と継母との間に息子が生まれた。その後、実の母親の新美家で30歳で叔父が亡くなった。そこで、8歳の時、南吉は新美家の跡取りとしてもらわれていった。
後妻に入った母と生活することになり、南吉はつらい思いをすることになった。そして、とうとう寂しさに耐えられなくなり、半年ほどで渡辺家に戻っていった。




中学生になった南吉は、読書に熱中するようになった。二年生のころから、童謡や童話をつくるようになる。卒業し、高校受験するが、痩せすぎだったため体格検査で不合格になったため、一時母校で代用教員を務めた。



この時期に児童雑誌「赤い鳥」に作品が載りはじめ、昭和7年に「ごんぎつね」が入選した。自信を深めた南吉は、どうしても東京に出たくなり、東京外国語学校英文科に進学した。



東京時代は北原白秋に師事し、やがて兄弟子の巽聖歌にかわいがられた。文学以外にも様々な芸術にふれるが、この頃から肺結核に侵され、卒業後に喀血をし、帰郷した。

帰郷してからは、小学校で代用教員をしたり、鶏のエサをつくっていた田んぼの飼料会社に勤めたりして、満足に創作に打ち込めなかった。



そんな様子を見た中学校時代の恩師が奔走し、昭和13年に安城高等女学校の正教員として採用された。2年目以降は、安城新田の大見家で下宿をし、経済的にも精神的にも安定した南吉は、再び創作活動が盛んになり、昭和16年に「良寛物語」「手毬と鉢の子」を出版した。



新人作家として本格的にデビューを果たすが、その頃には結核がかなり進行していて、翌年の昭和18年3月22日、29歳で亡くなった。





南吉童話の特徴に、物語性と文章の平明さがある。子どもが引き込まれるようなストーリーの展開の面白さと、文字を目で追わずに耳だけで聴いても頭に入ってくるような、やさしくわかりやすい文章で、この二つは民話の特徴でもある。



南吉童話に狐が多く出てくるのも、民話から学ぼうとした影響かと思われる。狐は人を化かしたり演技したり特殊な力を持っていて、神の使いとして神秘的な印象があると思えば、いたずらをしたりと、ユニークな魅力がある。



「ごんぎつね」には、本来あった郷土色が消された一面もある。方言がそれで、当時「赤い鳥」の主宰だった鈴木三重吉によって手直しされた。当時無名だった南吉の原稿が直されるのは当然といえた。現在われわれが読んでいる「ごんぎつね」は、三重吉の手が加えられた文章である。例えば「いわしのだらやすー」が「いわしのやすうりだァい。」に変えられている。





作品の舞台と歴史が反映されている作品では「おじいさんのランプ」がある。当時の尾張大野は指折りの都会だった。電気の供給で最初に電灯がともったのは大野だった。

舞台になった半田池は、現在は埋め立てられ、ソーラー発電所になっている。

「島」にも、捕鯨が行われていた篠島の鯨浜(くじはま)が描かれている。







どうして南吉はふるさとにこだわり、ふるさとを描いたのか?

もともと故郷への関心はあったが、同時に都会に対する強い憧れがあった。

東京での生活に親しむにつれ、故郷の人々をうとましくさえ思い始めた。その一方で、健康で生命力あふれる田舎の人々に対して、自分は病弱で生活力がない、と屈折した思いを抱いていた。



帰郷した南吉が、次第にふるさとに生きる人々を肯定的に受け入れるようになったが、ふるさとでないといけない、ふるさとだからこそ書けるんだと思わせる根源的な理由があったと思われる。



「しみじみ感じる」。言い換えると「実感する」ということを南吉は大切にした。

「南吉は文学で自己表現をした作家」と、向川幹雄氏が評した。何を自己表現したかったのか、というと「美しいものに感動する喜び」そして「互いにつながり合いたいという願い」と思われる。このテーマは南吉の作品で繰り返し描かれている。







南吉の人間像を深掘りすることで、作品への愛着が深まった講演でした。




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 会場ロビーには、精巧なジオラマ作品が展示されていました。






















『僕は現在「実感」つまり、しみじみそうだと思う瞬間が人間の生命の一番甲斐のある働きをしたときだと思う。弾丸でいうと的の中央にあたるときだ。ところでその「実感」というやつはまことに微妙な存在のしかたをするのであって、決して二度同じ実感があるということはない。例えば同じ書物を読んでも、最初のときにうけとる「実感」と二度目にうけとるそれとは違うのである。』(昭和15年2月2日 日記より)




若さあふれる朗読劇、多くの発見があった講演、手作りのジオラマ作品など、

南吉愛をしみじみと感じるイベントでした。


2019年11月24日日曜日

南吉さんの世界へようこそ~朗読・語り・歌を楽しみましょう~


2019年11月23日(土)



名古屋市・大須の阿弥陀寺にて、あいち文学フォーラム主催イベント

「南吉さんの世界にようこそ ~朗読・語り・歌を楽しみましょう~」を行いました。





第一部は「朗読って楽しいです!」





参加者による、南吉作品の朗読を行いました。



「うぐいすをふけば」
<この うぐいすは おかあさんうぐいすで、せんだってのこと、ぼうやの うぐいすを なくしたので、たいへん かなしんで いたのでした。 それで、この うぐいすは、おかあさんを なくした こどもの ふく、かなしい うぐいすぶえの おとを きくと、ぼうやのことを おもいだしました。>




「お母さんたち」
<牝牛と小鳥は、一生けんめいに習いましたが、それでも覚えられないので おしまいには いやになってしまいました。けれど蛙が、「子守歌を知らないでどうして赤ん坊が育てられましょう。」といいますので、また元気を出して、「げっ げっ げっ」と習うのでした。そしてそれは夕方、風が涼しくなる頃までつづきました。>




「去年の木」
<小鳥は、ランプの火をじっとみつめておりました。それから、去年の歌をうたって火にきかせてやりました。火はゆらゆらとゆらめいて、こころからよろこんでいるようにみえました。 歌をうたってしまうと、小鳥はまたじっとランプの火をみていました。それからどこかへとんでいってしまいました。>




「こぞうさんのおきょう」
<こぞうさんは だんかへ いきました。そして、うさぎの おしえて くれたように、ほとけさまの まえで、 
むこうの ほそみち ぼたんが さいた  さいた さいた ぼたんが さいた
と かわいい こえで うたいました。 きいて いた ひとびとは びっくり して 目を ぱちくり させました。 それから くすくす わらいだしました。 こんな かわいい  おきょうは きいた ことが ありません。>



「赤いろうそく」
<さて夜になりました。みんなは胸をおどらせて山のてっぺんにやって行きました。猿はもう赤いろうそくを木の枝にくくりつけてみんなの来るのを待っていました。 いよいよこれから花火を打ち上げることになりました。しかし困ったことが出来ました。と申しますのは、誰も花火に火をつけようとしなかったからです。みんな花火を見ることは好きでしたが火をつけにいくことは、好きでなかったのであります。>




「あめだま」
<「あめ玉をだせ。」とさむらいはいいました。母さんはおそるおそるあめ玉をさしだしました。さむらいはそれを舟のへりにのせ、刀でぱちんと二つにわりました。そして、「そオれ。」とふたりの子どもにわけてやりました。それから、またもとのところにかえって、こっくりこっくりねむりはじめました。>




「小さい太郎の悲しみ」


<或る悲しみは泣くことができます。泣いて消すことができます。しかし或る悲しみは泣くことができません。泣いたって、どうしたって消すことはできないのです。いま、小さい太郎の胸にひろがった悲しみは泣くことのできない悲しみでした。>




詩「島」
<島で、或あさ、鯨がとれた。 どこの家(うち)でも鯨を食べた。 鬚(ひげ)は、呻(うな)りに、売られていった。 りらら、鯨油(あぶら)は、ランプで燃えた。 鯨の話が、どこでもされた。 島は、小さな、まづしい村だ。>




「手袋を買いに」
<「母ちゃん、人間ってちっともこわかないや。」「どうして?」「坊、まちがえてほんとうのお手々出しちゃったの。でも帽子屋さん、つかまえやしなかったもの。ちゃんとこんないい手袋くれたもの。」
といって、手袋のはまった両手をパンパンやってみせました。お母さん狐は、「まあ!」とあきれましたが、「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら。」とつぶやきました。>






第二部は「お話と歌で広がる南吉の世界」



ストーリーテラーとして、小野敬子さん、左近玲子さん、ギターと歌で左近治樹さんをお招きして、お話と自身による作詞作曲の歌を披露されました。









その後、ゲスト3人へのショートインタビューを行いました。




新美南吉記念館で毎月第四日曜日に行う歌とお話の会は、もうすぐ200回を迎えるそうです。




第三部は「南吉の詩をみんなで歌いましょう」





詩・新美南吉 作曲・大中恩の「貝殻」を参加者全員で歌いました。





南吉愛にあふれる人たちによる朗読と歌は、とてもこころ愉しい時間でした。






来月12月14日(土)は、東別院イーブルなごやにて、講演会「南吉さんに会いに来て!」があります。

新美南吉の世界をもっと深く知りたい方は、ぜひご参加ください。お待ちしております。