2025年7月20日(日)
岡山県赤磐市 熊山へ行きました。詩人・永瀬清子をめぐる旅です。
永瀬清子(1906-1995)は、岡山県赤磐郡豊田村松木(現在の赤磐市松木)にて生まれ、幼少期を石川県で過ごし、16歳で名古屋に移り住みました。そこで上田敏詩集を読み感銘を受け、詩人になる決意をしました。21歳で結婚、大阪へ移住、家事と育児をしながら詩を書き続け、作品を発表しました。
39歳のとき、戦争が激しくなり、夫が岡山へ転勤となり、岡山市に住む母の家に移ります。岡山空襲で大きな被害を受け、最低限の家財道具を持って避難しました。
戦争が終わってからは、生まれ故郷の松木に戻り、農家として暮らすことになりました。農作業の間も、常ににノートを持ち歩き、言葉と詩を書き続けました。
59歳で岡山市へ移住、89歳で亡くなるまで、詩人として生涯現役を貫きました。
最初に訪れた場所は、永瀬清子展示室。ここで永瀬清子の研究をされている学芸員・白根直子さんにお話を伺いました。
「今、詩人・永瀬清子がアツい。」展を眺めつつ、永瀬清子の生涯と詩作の魅力について、詳しくお話を聴かせて頂きました。その後の旅がいっそう楽しみとなりました。
次に訪れた場所は、永瀬清子の生家です。
現在は、家族と住んでいた家を修復して、展示会や喫茶店を開いています。
昼食を終えて、次に向かった場所は熊山橋です。「熊山橋を渡る ── 一九四八年一月十四日」の碑が立っています。
新しく架け直された熊山橋を渡り、思いを馳せました。吉井川を眺めていると、僕の住んでいる愛知県の矢作川の風景と似ていて、親近感が湧きました。聞こえたのは、ててっぽっぽうの声ではなく、うぐいすの鳴き声でした。
次に訪れた先は、赤磐市から大きく離れて、瀬戸内市にある長島です。
永瀬清子は1948年(43歳)から、国立ハンセン病療養所・邑久光明園と長島愛生園の入所者と、詩作を通じた交流で40年間通い続けていました。
この旅でいちばん知りたかったことは「神谷美恵子と直接の交流はあったのか?」です。
神谷美恵子(1914-1979)は、1957年(43歳)から1972年(58歳)まで、精神科医として長島愛生園に勤務していました。長島愛生園で診療をした経験から着想を得て、名著「生きがいについて」が著されました。
「愛知県に在住していた・・・永瀬清子 名古屋にて16歳~21歳(1922年~1927年)
神谷美恵子 岡崎にて64歳~65歳の最晩年(1978年~1979年)」などの共通点があります。
二人の足跡を辿るべく、むつみ交流館にて、機関紙「愛生」を調べてみました。
直接の交流はわからなかったものの、こうして二人は「愛生」を通じて邂逅していたのだ、と。
この本に収録されているエッセイ「万霊山にて」は、心が洗われる、非常に優れた文章です。
永瀬清子も、この万霊山を散歩したのかな?
永瀬清子が生きた足跡をたどり、赤磐から長島へとめぐった旅は、とてもアツい気持ちになった一日でした。
永瀬清子も、この万霊山を散歩したのかな?
永瀬清子が生きた足跡をたどり、赤磐から長島へとめぐった旅は、とてもアツい気持ちになった一日でした。
この旅でお会いした方々に深く感謝いたします。
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