あいち文学フォーラム主催のイベント・「名古屋文学散歩」を行いました。
名古屋ゆかりの文学の地を、小型バスで巡る一日です。
始めに、案内人の山下達治氏の解説を受け、それからバスで各地をまわります。
二葉亭四迷の旧居址(堀川日置橋あたり・紫川と思われる 玄蕃新地 葛町)
(現・中区松原3丁目)1868~1872まで名古屋に居住。
『僕が九才か十才のときだつたと思ふ、名古屋の小学に通つてた頃、或日の事に学校から帰つて来ると、唯有る川縁で大勢の人群りがしてる。
何だらうと人を掻退けて頭を突込んで見ると水死だ。既に菰を引掛けてあつたから顔は見えなかったが、膝から下は出て居たので、善く見ると二人だ。』
(「巨匠断片」明治40年・朝日新聞)
中勘助「銀の匙」ゆかりの地(水主町 廻間町)
(現・中区大須1丁目 松原1丁目 大須スケートリンクの近く)
『伯母さんの住んでいるのは「お船手」といって旧幕時代に藩の御船手組のいたという川ばたの小さな家のたてこんだ一郭であった。
(略)自分よりずっと背が高くなった私を肩からお賓頭盧様(びんつるさま)みたいになでまわした。
そうしてひとが消えてなくなりでもするかのようにすこしも目をはなさず「まあ、そのいに大きならんしてちょっともわかれせんがや」といいながら火鉢のそばにすわらせ、挨拶もそこそこにもっとなでたそうな様子で「ほんによう来とくれた、まあ死ぬまで会えんかしらんと思っとったに」と拝まないばかりにして涙をふく。
(「銀の匙」大正2年・朝日新聞)
夏目漱石「三四郎」ゆかりの地(笹島停車場前あたりと思われるが諸説あり)
(現・中村区名駅南1丁目)
『九時半に着くべき汽車が四十分ほど後れたのだから、もう十時は過っている。けれども暑い時分だから町はまだ宵の口のように賑やかだ。
宿屋も眼の前に二、三軒ある。ただ三四郎にはちと立派過ぎるように思われた。
そこで電気燈の点いている三階作りの前を澄まして通り越して、ぶらぶら歩行いて行った』
(「三四郎」明治41年・朝日新聞)
途中で美味しい日本料理の昼食をいただきました。
小酒井不木(こさかい
ふぼく)宅跡(中区御器所町北丸屋)
(現・昭和区鶴舞4丁目)
『小酒井さんといへば、私はすぐこの椅子を思ひ出す。私の頭の中では、この持主と品物とが、まるで一つの物の様に仲よしになつてゐる。
それは若しかしたら、小酒井さんが、アノ肱掛(ひじかけ)椅子と同じ様に、いつも変らず親切で、肌触り柔かで、思ひやりが深くて、抱擁力に富んでゐた、その相似から来てゐたのかも知れない。
肱掛椅子の凭(よ)り心地、といふ比喩は故人に対して礼を失するかも知れぬけれど。』
(江戸川乱歩「肱掛椅子の凭り心地」昭和4年・新青年)
平和公園にて、渡辺新左衛門の墓
『「朝命というのは、どうしても腑に落ちない。いかなる理由による朝命なのか、冥土の土産に、ぜひ聞かせてほしい」
若侍たちをにらみつけ、強い口調でいった。このため、二人の者が走って行った。そのまま、時間が流れた。だれも説明に来る様子はない。
西からは鉛色の雪雲が這うようにのびてきて、日はすっかり暮れようとしていた。
目付は、処刑を命じた。まず、渡辺新左衛門の首を新野久大夫が打ち落とした。』
(城山三郎「冬の派閥」昭和56年・中日新聞)
徳川宗春(1696~1764)の墓
『宗春は、施政の心得は、「慈忍」の二字に尽きると考え、その二字を大書して床の間に掲げた。
しかも、「慈」の上には太陽、「忍」の上には月を描かせた。慈愛の心は、太陽のように領内の隅々まで照らすべきであり、忍耐の念は、月のように静かにわが心に満ちよ、というのである。
宗春が自ら書いた「温知政要」には、そうした精神が溢れており、慶勝の心をとらえた。』
(城山三郎「冬の派閥」)
名古屋の街は、濃尾地震や名古屋大空襲からの復興・開発を経て、街並の様子も大きな変貌を遂げ、歴史を物語る場所が目立たなくなりました。
それでも名古屋には、多くの人に知られずに眠っている場所が、まだまだたくさん存在しています。
それらの埋もれた歴史を掘り起こし、また、過去の縁(よすが)をしのぶ、発見に満ちた一日でした。
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