2017年12月10日日曜日

2017年12月9日(土)

あいち文学フォーラム主催のイベント『知ってびっくり!尾張の殿様徳川慶勝〜城山三郎の「冬の派閥」を語る』を開催しました。

講師は小説家・奥山景布子さん、徳川美術館学芸員・原史彦さん。




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オープニングゲストとして、城山三郎次女・井上紀子さんが登壇され、娘から見た父親の姿を語られました。



栄誉や光が当たらずとも、自分の道を貫く人に小説のモデルを選び、そのなかに「冬の派閥」の徳川慶勝があった。
律儀であり、筋を通す人、表立って大きな声で主張しない人にスポットを当てる。組織や時代に翻弄されながらも、自分が犠牲になってでも奔走する慶勝の姿に惹かれた。

軍国少年だった父・城山三郎は、信じていた国に裏切られ、さらにそれを裏で画策していた者たちに裏切られ、二重の苦しみを味わった。
そこから真実を見極めて生きていかなければいけない、ということを父から現在の宿題として課せられているのでは。

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奥山景布子さんのお話は「城山三郎という作家」「小説・冬の派閥」「徳川慶勝」をテーマに、城山三郎の略年表をベースに、小説家の視点から城山三郎像を浮き彫りにしました。



また、歴史小説を描く面白さも味わえました。同じ人物を扱っても、作家が注目する点や切り口の違いによって、まったく違う物語が生まれる。
また、同じ題材でも書き手や読者の受け止め方が時代によって変わる。
新しい資料や事実の発見によって、歴史の捉え方が変化していく。複数の作家によって世代を超えて、語り継がれていくところが歴史小説の宿命であり面白さでもある。




続いて、原さんは「冬の派閥」前史をひもとき、尾張徳川家の複雑な系譜とその人間関係から、徳川慶勝の代に起こった「青松葉事件」に至る派閥抗争と、家臣の北海道移住に至るまでを、わかりやすく簡潔に、かつ面白く解説されました。



「青松葉事件」において、慶勝は朝命により自らの家臣を処分せざるを得なかった。「実体のない命令」に抗うわけでもなく、積極的に関与したわけでもないのに、何千人という家臣が路頭に迷うかもしれない、という立場に置かれ、決断を迫られるリーダーは、その時どういう判断ができるか。



新政府設立に重要な役割を果たした徳川慶勝。そのために奔走したことをほとんど知られずに埋もれてしまった数々の逸話が、次から次へと飛び出しました。



終盤の二人のトークセッションは、12月13日に出版される新作「葵の残葉」の冒頭の「高須兄弟・維新後10年目の邂逅」を引き合いに、小説にまつわるエピソードが沢山出ました。

また慶勝は、最後の将軍・徳川慶喜よりもはるかに早く写真を始めた人物で、1867年に初めて写真撮影に成功した科学者としての側面もあり、歴史的価値が高い記録を数多く残しています。




二人のトークセッションは最後の最後まで面白く、まだまだ聞きたいと感じながら終了しました。




聞いている人たちが、二人の話に夢中になって聞いている様子がありありと伝わってきて、とても楽しく学ばせていただいた時間でした。




2017年10月12日木曜日

『知ってびっくり!尾張の殿様・徳川慶勝(よしかつ)~城山三郎の「冬の派閥」を語る~』 のお知らせ


 



「知ってびっくり!尾張の殿様・徳川慶勝(よしかつ)~城山三郎の「冬の派閥」を語る~」

日時:2017年12月9日(土)
   13時受付開始/13時30分開演~16時終演

会場:イーブルなごや ホール (地下鉄名城線「東別院」下車徒歩3分)
   (名古屋市男女平等参画推進センター・女性会館)
    名古屋市中区大井町7番25号 TEL 052-331-5288


講師:原 史彦氏 / 奥山 景布子氏

スペシャルゲスト:井上 紀子氏 (城山三郎次女 著書『城山三郎が娘に語った戦争』)

入場料:2,000円 (全自由席) 
当日も受け付けますが席数に限りがあるため、事前に入場券をお求め下さい。

■お申し込み・入場券のお求め
<E-mail>aichibungaku@yahoo.co.jp
または<FAX>052-613-8551(市川)へ名前・住所・電話番号を記入、お申し込みの上、ゆうちょ銀行「払込取扱票」にて下記口座にお振込みください。お振込み確認後、入場券をお渡しします。

※締め切り 11月25日(土)
 振替口座 00890-0-136146 あいち文学フォーラム

■お問い合わせ
Tel 090-5865-0089(市川)
090-7043-0159(上中)


講師プロフィール

原史彦(はら ふみひこ)
徳川美術館学芸部部長代理。昭和42年(1967)岐阜県生まれ。
東京学芸大学卒業。江戸幕府政治史・江戸文化史専攻。
東京都江戸東京博物館・東京都写真美術館勤務を経て現職。主な著書に『参勤交代-巨大都市江戸のなりたち-』(江戸東京博物館 平成9年)、『皇女和宮-幕末の朝廷と幕府-』(江戸東京博物館 平成9年)、『写真家大名・徳川慶勝の幕末維新』(共著・NHK出版 平成22年)、『江戸の大名屋敷』(洋泉社 平成23年)、
『徳川将軍の御成』(徳川美術館 平成24年)、『徳川慶勝-知られざる写真家大名の生涯-』(徳川美術館 平成25年)など。


奥山景布子(おくやま きょうこ)
小説家。博士(文学)。愛知県生まれ。名古屋大学大学院博士課程修了。

「平家蟹異聞」で第87回オール讀物新人賞を受賞(受賞作は文春文庫『源平六花撰』に所収)。『びいどろの火』(文藝春秋)で第15回松本清張賞候補、『太閤の能楽師』(中央公論新社)で第4回歴史時代作家クラブ賞作品賞候補、『たらふくつるてん』(中央公論新社)で第22回中山義秀賞候補となる。この冬、徳川慶勝およびその弟たちの生涯を描いた小説を刊行予定。名古屋市文化振興事業団主催公演「山三と阿国」の台本も担当。

2017年9月18日月曜日

「城山三郎の遺産」講座 延期のお知らせ

9/17(日)の「城山三郎の遺産」講座は、台風の影響のため、延期となりました。

10/1(日)13:3016:00 に日時を改めて開催いたします。

場所は同じく「イーブルなごや (第1研修室(2階)」です。


参加者の皆様、よろしくお願いします。

2017年8月30日水曜日

お知らせ:文学講座「城山三郎の遺産(レガシー)」と、読書会『冬の派閥を読みましょう』

主催 あいち文学フォーラム

2017年 第2回文学講座 「城山三郎の遺産(レガシー)」

●日程:9月17日(日) 13:3016:00
●会場:イーブルなごや視聴覚室
●定員:50名程
●参加費:500

Ⅰ 城山三郎と名古屋
 講師:山下達治(あいち文学フォーラム)
  ・少年時代 ・城山作品の魅力
  ・妻との出会い 『そうか、もう君はいないのか』より朗読
Ⅱ 城山三郎さんと私
 ・市川斐子(あいち文学フォーラム)・上中満喜(あいち文学フォーラム)
 ・柄澤清弘(城山さんの教え子)
Ⅲ 音声資料等で偲ぶ城山三郎
Ⅳ 城山三郎の遺産をどう活かすか
Ⅴ 次回、拡大読書会の案内


2017年 第3回文学講座
拡がる読書会の輪 -『冬の派閥を読みましょう』-

●日程:1029日(日) 13:3016:00
●会場:イーブルなごや 第1研修室
●参加人数:50名程
●参加費:500

●作品解説:
御三家筆頭として幕末政治に絶大な影響力を持つ尾張藩の、勤王・佐幕の対立は、ついに藩士十四人を粛清する〈青松葉事件〉へと発展し、やがて明治新政府下、藩士の北海道移住という苦難の歴史へと続く。尾張藩の運命と不可分の、藩主徳川慶勝の「熟察」を旨とする生き方を、いとこ一橋慶喜の変り身の早い生き方と対比させつつ、転換期における指導者のありかたを問う雄大な歴史小説。


●申込方法:9月10日(日)までに申し込みする講座を記入し、氏名、住所、電話番号(携帯電話可)を明記の上、下記メールアドレスに送信してください。

●メールアドレス: aichibungaku@yahoo.co.jp









2017年7月24日月曜日

茨木のり子の「詩」を読む

2017723日(日)

名古屋・東別院イーブルなごやにて、
あいち文学フォーラム主催のイベント『茨木のり子の「詩」を読む』を行いました。



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水内喜久雄氏によるお話「茨木さんのやさしさを受け取って」を聞きました。



水内氏が小学校の授業で使おうと思い、良い詩を探していたとき、良い詩がたくさん載った本が見つからず、自分で詩集を作ることになった話。
子どもたちに自分が読んで良いと思った詩を提示して、子どもたちが良いと思ったものは良い詩であり、それを集めた詩集。
尋常小学校を卒業した自分の母が良いと感じるような、読者を優先したわかりやすい詩。また、なんだかわからないけど感動した詩も、詩集の基準にしたこと。



詩を書いた人に会えるの?の話。まどみちおに会いに行った話。わかりやすい言葉で普通に読める、けれども奥深い詩。身の回りの物を書いた詩。
たんなる日記ではなくて「詩」となる、文学として高まるもの。


11年前、茨木のり子が亡くなる10日前に電話で話したときのエピソード。

「自分の感受性くらい」「倚りかからず」から読んだ人と、「歳月」から読んだ人では、読んだ人の見方が違うのでは。
「自分の感受性くらい」「倚りかからず」は主張がある、完結している。これらが発行されるまでの詩の世界は、詩の世界で終わっていた。

「自分の感受性くらい」が発行されてからは、谷川俊太郎の「ことばあそびうた」と同じように一般の人にも広がっていった。それまでの現代詩とは何がちがうのか?それはイメージが持てること。

茨木のり子はどういうつもりで書いたのか?自分のことを書き、自分自身を奮い起こすために書いた詩なのだ、と。読者は、自分に言われているような気がした。自分の「詩」として受け止めた。それまでの現代詩は、個人が自分のためだけに書いた詩で、わかりにくかった。

女性の読者が言いたくても言えないことを、茨木のり子が言ってくれていることが嬉しかったということで、ファンが増えていった。



茨木のり子にインタビューを申し込んだ時のエピソード。

井の頭公園で会った時、「トヨエツの最終回はどうなりましたか?」と、いきなり当時のドラマの質問をされ、その話をしたら、その最終回の場面が井の頭公園だったことで、水内氏の緊張を和らげるために気遣ってくれたのでは、と感じたこと。

ハングルを習い始めた時の話。隣の国の言葉ですから。ひとりでできる罪滅ぼし。韓国のことを理解しようと思えば、まず言葉から。

水内氏と茨木のり子との、心温まるお話が盛りだくさんの内容でした。




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後半は「茨木のり子の詩を読み、聴き、味わいましょう」

参加者による朗読を行いました。



「茨木のり子の献立帖」(2017年)より日記の朗読
「はじめての町」(『見えない配達夫』1958年)
「夏の星に」(『見えない配達夫』1958年)
「汲む」(『鎮魂歌』1965年)



「色の名」(『花神ブックス1 茨木のり子』1975年)
「自分の感受性くらい」(『自分の感受性くらい』1977年)
「答」(『食卓に珈琲の匂い流れ』1992年)
「なかった」(『食卓に珈琲の匂い流れ』1992年)



7名による群読「わたしが一番きれいだったとき」(『見えない配達夫』)
「娘たち」(『おんなのことば』1994年)
「倚りかからず」(『倚りかからず』1999年)



「時代遅れ」(『倚りかからず』1999年)
「お経」(『歳月』2007年)
「歳月」(『歳月』2007年)

茨木のり子のインタビュー時の肉声と、インタビューの時の思い出。



絵本『貝の子プチキュー』(2006年)




目を閉じて、読む人の詩を聴いたり、うなずいて聴いたり。
詩から読者へと伝わる、茨木のり子の優しさと強さ。
参加者それぞれが茨木のり子の詩の世界を味わっていました。





2017年7月3日月曜日

「城山三郎湘南の会」との合同読書会

2017年7月2日(日)

神奈川県茅ヶ崎市の市立図書館にて、合同読書会を行いました。



名古屋二葉館の読書会は、茅ヶ崎城山三郎湘南の会と交流があり、2年に一度お互いの本拠地を訪ねて、合同読書会を開きます。



今回のテキストは城山三郎「秀吉と武吉ー目を上げれば海ー」で、戦国時代末期、瀬戸内海の村上水軍を率いた海賊大将・村上武吉を描いた作品です。

武吉は船に斬り込んで人を殺めて金品を強奪する海賊行為を禁じ、自領の通行料として徴税する帆別銭(ほべちせん)を導入して領地経営を図りました。

調略の限りを尽くして武名を挙げた中国地方の大名・毛利元就とは、厳島の決戦で手を組んで陶晴賢(すえ はるかた)を破りましたが、のちに海賊の意地と毛利一族への義理を通して秀吉の意向に沿わなかったことで、塗炭の苦しみを味わうことになります。

絶妙な人たらしで権力を拡大する豊臣秀吉に翻弄されるさまが描かれ、戦国時代の転換期における指導者の決断と生き様が対照的にあらわれています。


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今回の読書会の参加者はおよそ30名でした。


・現代に照らし合わせれば、大企業と中小企業の悲哀である。

・新時代を暴れ回るグローバリズム(秀吉)とそれに呑まれるローカルな武吉との隠喩と読み取れた。
・作者は海軍志願して広島へ行った。甘やかに感じられるサブタイトルは、海への思いがあらわれている。
・人生は思うようにはいかないものであり、引き受けた運命をどう生きるかを考えた。
・運命を従容として受け入れた生き方は「落日燃ゆ」の広田弘毅に共通している。
・合言葉を間違え、掟に反した足軽を処刑したことを悩んだ武吉が内省的で、海賊の頭目というイメージとは違う。
・大山祇(おおやまずみ)神社などで連歌の催しをして軍内の心をひとつにすることで、大勢が参加する連歌の中から優れた歌が詠まれた。
・船乗りはロマンチストで武吉の生き方に共感した。帆別銭は現代では運河通行料として形は違えどある。
・瀬戸内は重要な海域で、武吉が遺した「村上舟戦要法」は明治海軍の秋山真之も参考にしたのでは。
・武吉が好んだ「任運自在」という禅語。流れに身を任せ、その巡り合わせを味わう。それが秀吉と武吉の自由の求め方の違いであって、秀吉の自由とは世の流れを自分で曲げていったことだ。



私はこう読んだ。私はこう感じた。読まれた方々の感想に熱意が感じられました。


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読書会の前に味わった洋食がとても美味しかったです。





読書会の後は、茅ヶ崎ゆかりの人物館へ。



名古屋出身の城山三郎は、作家生活を始めて以降、茅ヶ崎に移り住みました。
城山氏と交流のあった人々のエピソードや思い入れのある作品の紹介などが展示されており、城山氏の往時を偲ばせる内容でした。



別棟では茅ヶ崎ゆかりの有名人が100人以上列挙されており、面白かったです。



また、茅ヶ崎駅前の長谷川書店さんでは、城山三郎コーナーが設置されていました。

没後10年を偲ぶ文がとてもよかったです。



「目を上げれば海  運に任せて自在の海  ああ、人の世は海」(『秀吉と武吉』より)

茅ヶ崎は海に面した街。

ラチエン通りから見えた烏帽子岩や、サーファーたちの姿が印象的でした。

2017年6月27日火曜日

文学講座 茨木のり子の「詩」を読む のお知らせ



主催 あいち文学フォーラム
2017年 第1回文学講座
茨木のり子の「詩」を読む

●日程:7月23日(日)午後1時30分~午後4時
●会場:イーブルなごや 2階・第2研修室
(地下鉄名城線「東別院」下車 1番出口から東へ徒歩3分)
●参加費:500円  ●定員:40名程度

「現代詩の長女」といわれる茨木のり子は、1926年(大正15)6月12日、大阪に生まれる。1932年(昭和7)に医師である父の転勤に伴い愛知県西尾市に移る。1939年(昭和14)に愛知県立西尾高等女学校に入学、その後父が吉良町吉田に病院を開業して転居。1943年(昭和18)に帝国女子医学・薬学・理学専門学校(現・東邦大学)薬学部に入学するまで吉良町で過ごす。2006年(平成18)クモ膜下出血のため死去。

【第1部】 午後1時30分~2時30分
水内喜久雄さんのお話
「茨木さんのやさしさを受け取って」

■水内喜久雄氏プロフィール
1951年福岡県生まれ。編著書に『輝け!いのちの詩』『いま、きみにいのちの詩を』『ステキな詩に会いたくて―54人の詩人をたずねて―』など多数。
編集した『詩と歩こう』シリーズの1冊目は茨木のり子の『落ちこぼれ』。
コーヒーバリスタ、ティースペシャリストなどの資格マニアでもある。

【第2部】 午後2時40分~午後4時
茨木のり子の詩を読み、聴き、感じましょう。

申し込み・お問い合わせ〈E-mail
●申し込み方法:7月18日までにお名前・お電話番号(携帯電話可)を明記の上、下記メールアドレスに送信して下さい。
●メールアドレス: aichibungaku@yahoo.co.jp





2017年6月10日土曜日

名古屋文学散歩

2017年6月10日(土

あいち文学フォーラム主催のイベント・「名古屋文学散歩」を行いました。

名古屋ゆかりの文学の地を、小型バスで巡る一日です。

始めに、案内人の山下達治氏の解説を受け、それからバスで各地をまわります。




二葉亭四迷の旧居址(堀川日置橋あたり・紫川と思われる 玄蕃新地 葛町)
(現・中区松原3丁目)18681872まで名古屋に居住。



『僕が九才か十才のときだつたと思ふ、名古屋の小学に通つてた頃、或日の事に学校から帰つて来ると、唯有る川縁で大勢の人群りがしてる。
何だらうと人を掻退けて頭を突込んで見ると水死だ。既に菰を引掛けてあつたから顔は見えなかったが、膝から下は出て居たので、善く見ると二人だ。』
(「巨匠断片」明治40年・朝日新聞)



中勘助「銀の匙」ゆかりの地(水主町 廻間町)
(現・中区大須1丁目 松原1丁目 大須スケートリンクの近く)



『伯母さんの住んでいるのは「お船手」といって旧幕時代に藩の御船手組のいたという川ばたの小さな家のたてこんだ一郭であった。
(略)自分よりずっと背が高くなった私を肩からお賓頭盧様(びんつるさま)みたいになでまわした。
そうしてひとが消えてなくなりでもするかのようにすこしも目をはなさず「まあ、そのいに大きならんしてちょっともわかれせんがや」といいながら火鉢のそばにすわらせ、挨拶もそこそこにもっとなでたそうな様子で「ほんによう来とくれた、まあ死ぬまで会えんかしらんと思っとったに」と拝まないばかりにして涙をふく。
(「銀の匙」大正2年・朝日新聞)



夏目漱石「三四郎」ゆかりの地(笹島停車場前あたりと思われるが諸説あり)
(現・中村区名駅南1丁目)



『九時半に着くべき汽車が四十分ほど後れたのだから、もう十時は過っている。けれども暑い時分だから町はまだ宵の口のように賑やかだ。
宿屋も眼の前に二、三軒ある。ただ三四郎にはちと立派過ぎるように思われた。
そこで電気燈の点いている三階作りの前を澄まして通り越して、ぶらぶら歩行いて行った』
(「三四郎」明治41年・朝日新聞)



途中で美味しい日本料理の昼食をいただきました。





小酒井不木(こさかい ふぼく)宅跡(中区御器所町北丸屋)
(現・昭和区鶴舞4丁目)



『小酒井さんといへば、私はすぐこの椅子を思ひ出す。私の頭の中では、この持主と品物とが、まるで一つの物の様に仲よしになつてゐる。
それは若しかしたら、小酒井さんが、アノ肱掛(ひじかけ)椅子と同じ様に、いつも変らず親切で、肌触り柔かで、思ひやりが深くて、抱擁力に富んでゐた、その相似から来てゐたのかも知れない。
肱掛椅子の凭(よ)り心地、といふ比喩は故人に対して礼を失するかも知れぬけれど。』
(江戸川乱歩「肱掛椅子の凭り心地」昭和4年・新青年)



平和公園にて、渡辺新左衛門の墓




『「朝命というのは、どうしても腑に落ちない。いかなる理由による朝命なのか、冥土の土産に、ぜひ聞かせてほしい」
若侍たちをにらみつけ、強い口調でいった。このため、二人の者が走って行った。そのまま、時間が流れた。だれも説明に来る様子はない。
西からは鉛色の雪雲が這うようにのびてきて、日はすっかり暮れようとしていた。
目付は、処刑を命じた。まず、渡辺新左衛門の首を新野久大夫が打ち落とした。』
(城山三郎「冬の派閥」昭和56年・中日新聞)



徳川宗春(16961764)の墓




『宗春は、施政の心得は、「慈忍」の二字に尽きると考え、その二字を大書して床の間に掲げた。
しかも、「慈」の上には太陽、「忍」の上には月を描かせた。慈愛の心は、太陽のように領内の隅々まで照らすべきであり、忍耐の念は、月のように静かにわが心に満ちよ、というのである。
宗春が自ら書いた「温知政要」には、そうした精神が溢れており、慶勝の心をとらえた。』
(城山三郎「冬の派閥」)



名古屋の街は、濃尾地震や名古屋大空襲からの復興・開発を経て、街並の様子も大きな変貌を遂げ、歴史を物語る場所が目立たなくなりました。
それでも名古屋には、多くの人に知られずに眠っている場所が、まだまだたくさん存在しています。
それらの埋もれた歴史を掘り起こし、また、過去の縁(よすが)をしのぶ、発見に満ちた一日でした。