2019年12月15日日曜日

文学イベント「南吉さんに会いに来て!」

20191214日(土)



名古屋・東別院イーブルなごやにて、文学イベント「南吉さんに会いに来て!」を行いました。






第一部は、朗読劇「ランプの夜」。

演出は馬場豊氏(脚本家 生徒・母親・市民による種々の朗読劇の構成、演出)。











旅人「私はあまりにもたくさんのものをみました。あまりたくさんのことを知っているのです。あまりたくさんのことを知ると、人は悲しくなるものです。」

姉「つかれているんでしょう。」

旅人「つかれています。」

姉「ここでゆっくりしていらっしゃい。いまにお母さんが帰っていらっしゃいますから、そしたらお茶をさしあげます。」

旅人「え、でも、私はゆっくりできないのです。私はゆかねばなりません。」

妹「なぜそんなに急いでゆくの。」

旅人「なぜか知りません。私の心がゆかねばならないというのです。」








妹「ああ、びっくりした。だれなの、あんたは。」

泥棒「泥棒です。」

妹「あら、いやだ、自分で泥棒ですなんて。泥棒にしてもずいぶん、まぬけな泥棒ね。」

泥棒「そんなことはない。」

姉「あら、そんなことはないなんて。」






少年「さあゆこう。」

姉「ほんとうにもうゆくの?」

少年「え、さよなら。」

姉「またいらっしゃいね。」

少年「いいえ、もうきません。」

妹「どうして?さっきの旅人だって、泥棒だって、またくるっていったわ。」

少年「でも、ぼくはもうきません。」

妹「どうしてそんな悲しいこというの。」

少年「でも、あの子がもういないもん。」








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第二部は、文学講演会「新美南吉はなぜ故郷あいちを描いたのか?」

講師は遠山光嗣氏(新美南吉記念館学芸員 新美南吉研究家)。







新美南吉は、東京の学生時代に、築地小劇場に出たり、学生演劇のグループにも参加していて、演劇に関心が高かった。

安城の女学校の先生になって、学生に芝居をつくるときにも力を入れていた。





平成から令和になり、美智子さまに関連して南吉作品が取り上げられた。美智子さまは、平成十年の国際児童図書評議会の講演で「でんでん虫のかなしみ」を紹介された。

美智子さまは、声が出なくなる病気を乗り越えた後の講演だった。悲しい時、つらい時に心の支えにされた物語と受けとめ、それまであまり知られていなかった「でんでん虫のかなしみ」は一気に有名になった。






文学ならではの読解力、共感力を養えるという点で「ごんぎつね」は非常に適した教材であって、全国の国語教師に支持されている。しかし、実用文を読ませるべきだ、文学など役に立たない、と考える人にとっては「ごんぎつね」は悪弊のある文学教育の象徴にされてしまう。





なぜ南吉はふるさとを描くことにこだわったのか?単に郷土愛ではない、南吉ならではの理由がみえてくる。



南吉は今から106年前、大正2年(1913)に、知多郡半田町岩滑地区に生まれた。本名は渡辺正八といった。南吉が4歳の時に母を亡くした。父が再婚をして、まもなく父と継母との間に息子が生まれた。その後、実の母親の新美家で30歳で叔父が亡くなった。そこで、8歳の時、南吉は新美家の跡取りとしてもらわれていった。
後妻に入った母と生活することになり、南吉はつらい思いをすることになった。そして、とうとう寂しさに耐えられなくなり、半年ほどで渡辺家に戻っていった。




中学生になった南吉は、読書に熱中するようになった。二年生のころから、童謡や童話をつくるようになる。卒業し、高校受験するが、痩せすぎだったため体格検査で不合格になったため、一時母校で代用教員を務めた。



この時期に児童雑誌「赤い鳥」に作品が載りはじめ、昭和7年に「ごんぎつね」が入選した。自信を深めた南吉は、どうしても東京に出たくなり、東京外国語学校英文科に進学した。



東京時代は北原白秋に師事し、やがて兄弟子の巽聖歌にかわいがられた。文学以外にも様々な芸術にふれるが、この頃から肺結核に侵され、卒業後に喀血をし、帰郷した。

帰郷してからは、小学校で代用教員をしたり、鶏のエサをつくっていた田んぼの飼料会社に勤めたりして、満足に創作に打ち込めなかった。



そんな様子を見た中学校時代の恩師が奔走し、昭和13年に安城高等女学校の正教員として採用された。2年目以降は、安城新田の大見家で下宿をし、経済的にも精神的にも安定した南吉は、再び創作活動が盛んになり、昭和16年に「良寛物語」「手毬と鉢の子」を出版した。



新人作家として本格的にデビューを果たすが、その頃には結核がかなり進行していて、翌年の昭和18年3月22日、29歳で亡くなった。





南吉童話の特徴に、物語性と文章の平明さがある。子どもが引き込まれるようなストーリーの展開の面白さと、文字を目で追わずに耳だけで聴いても頭に入ってくるような、やさしくわかりやすい文章で、この二つは民話の特徴でもある。



南吉童話に狐が多く出てくるのも、民話から学ぼうとした影響かと思われる。狐は人を化かしたり演技したり特殊な力を持っていて、神の使いとして神秘的な印象があると思えば、いたずらをしたりと、ユニークな魅力がある。



「ごんぎつね」には、本来あった郷土色が消された一面もある。方言がそれで、当時「赤い鳥」の主宰だった鈴木三重吉によって手直しされた。当時無名だった南吉の原稿が直されるのは当然といえた。現在われわれが読んでいる「ごんぎつね」は、三重吉の手が加えられた文章である。例えば「いわしのだらやすー」が「いわしのやすうりだァい。」に変えられている。





作品の舞台と歴史が反映されている作品では「おじいさんのランプ」がある。当時の尾張大野は指折りの都会だった。電気の供給で最初に電灯がともったのは大野だった。

舞台になった半田池は、現在は埋め立てられ、ソーラー発電所になっている。

「島」にも、捕鯨が行われていた篠島の鯨浜(くじはま)が描かれている。







どうして南吉はふるさとにこだわり、ふるさとを描いたのか?

もともと故郷への関心はあったが、同時に都会に対する強い憧れがあった。

東京での生活に親しむにつれ、故郷の人々をうとましくさえ思い始めた。その一方で、健康で生命力あふれる田舎の人々に対して、自分は病弱で生活力がない、と屈折した思いを抱いていた。



帰郷した南吉が、次第にふるさとに生きる人々を肯定的に受け入れるようになったが、ふるさとでないといけない、ふるさとだからこそ書けるんだと思わせる根源的な理由があったと思われる。



「しみじみ感じる」。言い換えると「実感する」ということを南吉は大切にした。

「南吉は文学で自己表現をした作家」と、向川幹雄氏が評した。何を自己表現したかったのか、というと「美しいものに感動する喜び」そして「互いにつながり合いたいという願い」と思われる。このテーマは南吉の作品で繰り返し描かれている。







南吉の人間像を深掘りすることで、作品への愛着が深まった講演でした。




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 会場ロビーには、精巧なジオラマ作品が展示されていました。






















『僕は現在「実感」つまり、しみじみそうだと思う瞬間が人間の生命の一番甲斐のある働きをしたときだと思う。弾丸でいうと的の中央にあたるときだ。ところでその「実感」というやつはまことに微妙な存在のしかたをするのであって、決して二度同じ実感があるということはない。例えば同じ書物を読んでも、最初のときにうけとる「実感」と二度目にうけとるそれとは違うのである。』(昭和15年2月2日 日記より)




若さあふれる朗読劇、多くの発見があった講演、手作りのジオラマ作品など、

南吉愛をしみじみと感じるイベントでした。


2019年11月24日日曜日

南吉さんの世界へようこそ~朗読・語り・歌を楽しみましょう~


20191123日(土)



名古屋市・大須の阿弥陀寺にて、あいち文学フォーラム主催イベント

「南吉さんの世界にようこそ ~朗読・語り・歌を楽しみましょう~」を行いました。





第一部は「朗読って楽しいです!」





参加者による、南吉作品の朗読を行いました。



「うぐいすをふけば」
<この うぐいすは おかあさんうぐいすで、せんだってのこと、ぼうやの うぐいすを なくしたので、たいへん かなしんで いたのでした。 それで、この うぐいすは、おかあさんを なくした こどもの ふく、かなしい うぐいすぶえの おとを きくと、ぼうやのことを おもいだしました。>




「お母さんたち」
<牝牛と小鳥は、一生けんめいに習いましたが、それでも覚えられないので おしまいには いやになってしまいました。けれど蛙が、「子守歌を知らないでどうして赤ん坊が育てられましょう。」といいますので、また元気を出して、「げっ げっ げっ」と習うのでした。そしてそれは夕方、風が涼しくなる頃までつづきました。>




「去年の木」
<小鳥は、ランプの火をじっとみつめておりました。それから、去年の歌をうたって火にきかせてやりました。火はゆらゆらとゆらめいて、こころからよろこんでいるようにみえました。 歌をうたってしまうと、小鳥はまたじっとランプの火をみていました。それからどこかへとんでいってしまいました。>




「こぞうさんのおきょう」
<こぞうさんは だんかへ いきました。そして、うさぎの おしえて くれたように、ほとけさまの まえで、 
むこうの ほそみち ぼたんが さいた  さいた さいた ぼたんが さいた
と かわいい こえで うたいました。 きいて いた ひとびとは びっくり して 目を ぱちくり させました。 それから くすくす わらいだしました。 こんな かわいい  おきょうは きいた ことが ありません。>



「赤いろうそく」
<さて夜になりました。みんなは胸をおどらせて山のてっぺんにやって行きました。猿はもう赤いろうそくを木の枝にくくりつけてみんなの来るのを待っていました。 いよいよこれから花火を打ち上げることになりました。しかし困ったことが出来ました。と申しますのは、誰も花火に火をつけようとしなかったからです。みんな花火を見ることは好きでしたが火をつけにいくことは、好きでなかったのであります。>




「あめだま」
<「あめ玉をだせ。」とさむらいはいいました。母さんはおそるおそるあめ玉をさしだしました。さむらいはそれを舟のへりにのせ、刀でぱちんと二つにわりました。そして、「そオれ。」とふたりの子どもにわけてやりました。それから、またもとのところにかえって、こっくりこっくりねむりはじめました。>




「小さい太郎の悲しみ」


<或る悲しみは泣くことができます。泣いて消すことができます。しかし或る悲しみは泣くことができません。泣いたって、どうしたって消すことはできないのです。いま、小さい太郎の胸にひろがった悲しみは泣くことのできない悲しみでした。>




詩「島」
<島で、或あさ、鯨がとれた。 どこの家(うち)でも鯨を食べた。 鬚(ひげ)は、呻(うな)りに、売られていった。 りらら、鯨油(あぶら)は、ランプで燃えた。 鯨の話が、どこでもされた。 島は、小さな、まづしい村だ。>




「手袋を買いに」
<「母ちゃん、人間ってちっともこわかないや。」「どうして?」「坊、まちがえてほんとうのお手々出しちゃったの。でも帽子屋さん、つかまえやしなかったもの。ちゃんとこんないい手袋くれたもの。」
といって、手袋のはまった両手をパンパンやってみせました。お母さん狐は、「まあ!」とあきれましたが、「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら。」とつぶやきました。>






第二部は「お話と歌で広がる南吉の世界」



ストーリーテラーとして、小野敬子さん、左近玲子さん、ギターと歌で左近治樹さんをお招きして、お話と自身による作詞作曲の歌を披露されました。









その後、ゲスト3人へのショートインタビューを行いました。




新美南吉記念館で毎月第四日曜日に行う歌とお話の会は、もうすぐ200回を迎えるそうです。




第三部は「南吉の詩をみんなで歌いましょう」





詩・新美南吉 作曲・大中恩の「貝殻」を参加者全員で歌いました。





南吉愛にあふれる人たちによる朗読と歌は、とてもこころ愉しい時間でした。






来月1214日(土)は、東別院イーブルなごやにて、講演会「南吉さんに会いに来て!」があります。

新美南吉の世界をもっと深く知りたい方は、ぜひご参加ください。お待ちしております。