2017年7月24日月曜日

茨木のり子の「詩」を読む

2017723日(日)

名古屋・東別院イーブルなごやにて、
あいち文学フォーラム主催のイベント『茨木のり子の「詩」を読む』を行いました。



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水内喜久雄氏によるお話「茨木さんのやさしさを受け取って」を聞きました。



水内氏が小学校の授業で使おうと思い、良い詩を探していたとき、良い詩がたくさん載った本が見つからず、自分で詩集を作ることになった話。
子どもたちに自分が読んで良いと思った詩を提示して、子どもたちが良いと思ったものは良い詩であり、それを集めた詩集。
尋常小学校を卒業した自分の母が良いと感じるような、読者を優先したわかりやすい詩。また、なんだかわからないけど感動した詩も、詩集の基準にしたこと。



詩を書いた人に会えるの?の話。まどみちおに会いに行った話。わかりやすい言葉で普通に読める、けれども奥深い詩。身の回りの物を書いた詩。
たんなる日記ではなくて「詩」となる、文学として高まるもの。


11年前、茨木のり子が亡くなる10日前に電話で話したときのエピソード。

「自分の感受性くらい」「倚りかからず」から読んだ人と、「歳月」から読んだ人では、読んだ人の見方が違うのでは。
「自分の感受性くらい」「倚りかからず」は主張がある、完結している。これらが発行されるまでの詩の世界は、詩の世界で終わっていた。

「自分の感受性くらい」が発行されてからは、谷川俊太郎の「ことばあそびうた」と同じように一般の人にも広がっていった。それまでの現代詩とは何がちがうのか?それはイメージが持てること。

茨木のり子はどういうつもりで書いたのか?自分のことを書き、自分自身を奮い起こすために書いた詩なのだ、と。読者は、自分に言われているような気がした。自分の「詩」として受け止めた。それまでの現代詩は、個人が自分のためだけに書いた詩で、わかりにくかった。

女性の読者が言いたくても言えないことを、茨木のり子が言ってくれていることが嬉しかったということで、ファンが増えていった。



茨木のり子にインタビューを申し込んだ時のエピソード。

井の頭公園で会った時、「トヨエツの最終回はどうなりましたか?」と、いきなり当時のドラマの質問をされ、その話をしたら、その最終回の場面が井の頭公園だったことで、水内氏の緊張を和らげるために気遣ってくれたのでは、と感じたこと。

ハングルを習い始めた時の話。隣の国の言葉ですから。ひとりでできる罪滅ぼし。韓国のことを理解しようと思えば、まず言葉から。

水内氏と茨木のり子との、心温まるお話が盛りだくさんの内容でした。




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後半は「茨木のり子の詩を読み、聴き、味わいましょう」

参加者による朗読を行いました。



「茨木のり子の献立帖」(2017年)より日記の朗読
「はじめての町」(『見えない配達夫』1958年)
「夏の星に」(『見えない配達夫』1958年)
「汲む」(『鎮魂歌』1965年)



「色の名」(『花神ブックス1 茨木のり子』1975年)
「自分の感受性くらい」(『自分の感受性くらい』1977年)
「答」(『食卓に珈琲の匂い流れ』1992年)
「なかった」(『食卓に珈琲の匂い流れ』1992年)



7名による群読「わたしが一番きれいだったとき」(『見えない配達夫』)
「娘たち」(『おんなのことば』1994年)
「倚りかからず」(『倚りかからず』1999年)



「時代遅れ」(『倚りかからず』1999年)
「お経」(『歳月』2007年)
「歳月」(『歳月』2007年)

茨木のり子のインタビュー時の肉声と、インタビューの時の思い出。



絵本『貝の子プチキュー』(2006年)




目を閉じて、読む人の詩を聴いたり、うなずいて聴いたり。
詩から読者へと伝わる、茨木のり子の優しさと強さ。
参加者それぞれが茨木のり子の詩の世界を味わっていました。





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