2016年9月23日金曜日

三ヶ根山・わらべの小径をめぐる旅

愛知県の蒲郡市と幸田町の間にある三ヶ根山。



かつては三河湾を見晴らす週末の保養地として栄えていましたが、現在は展望台もロープウェイも取り壊され、廃墟が点在する場所となっています。

ここには比島(ひとう)観音という、太平洋戦争でのフィリピン戦線で亡くなった518000人もの戦没者を祀った無数の鎮魂碑があります。


ぼけ封じ観音で知られる三ヶ根観音のちかくにある「わらべの小径」。
ここを歩くと、思わず笑みを浮かべるような、心なごむかわいらしい石の彫像や碑が数多く並んでいます。

天気が良ければ、渥美半島が見晴らすことができる風光明媚な丘。

ここに谷川俊太郎の碑が建てられています。
碑文の詩は「こころの色」。




こころの色(抜粋)

世界はみんなのこころで決まる
       世界はみんなのこころで変わる。
あかんぼうのこころは白紙
      大きくなると色にそまる
私のこころはどんな色?
      きれいな色にこころを染めたい
きれいな色ならきっと幸せ
      すきとおっていればもっと幸せ

      「法句経」より         谷川俊太郎



この碑の建立に携わった人物は、森永アサヱさん。



碧南市在住の女性で、22年前まで養護老人ホームで勤務していました。

現在は「ひがんばなの会」という永代供養墓建立の団体の代表をされています。


8年前、知人の石材店で石を買い取り、ほどなく森永さんが通う詩の朗読サークルで谷川氏の従兄弟の方と知り合いになりました。

ご縁とあって、その方に詩碑のことを相談したところ、谷川氏へ連絡して下さり、直接お会いする機会に恵まれ、本人より快諾を得ました。

除幕式には、仕事で名古屋を訪れた谷川氏が、わずかに空いた30分の時間内に間に合わせ来られたそうです。




谷川氏との除幕式までのお話とともに、「ひがんばなの会」の活動のエピソードも多く聴かせていただきました。

 


老人ホームに勤務しているとき。三ヶ根観音や比島観音を訪れる人たちに、なにかできることはないかと思った森永さんは、空いた場所でお茶を振る舞うボランティアを始めたところ、大変に好評をいただき、現在まで至っているそうです。

太平洋戦争で殉死された戦没者の方々は、自分を生み育ててくれた母を想い、また妻子を想いながら殉死されたと思われることから、多くの方々の願いとともに建立された「女の墓碑 永代供養墓」。

亡くなった後の墓について、人知れず抱く悩みや不安を解消するべく、有志とともに立ち上げた「ひがんばなの会」には、人々の「悲願」と「彼岸」の意味が込められているとのこと。

 

谷川氏の飾らない人柄と、森永さんの快活な人柄を物語るエピソードではありませんか。




森永さんと、「ひがんばなの会」設立前からの有志・中村スズ子さんと。

 

あいち文学フォーラムは、愛知県に文学館や碑を作るとともに、愛知文学の振興を目的に設立した民間団体です。

ひとりひとりが素人で、できることから手探りで活動しています。

私たちの活動に大きな励みと学びをもたらしてくれた、とても意義深い一日でした。


2016年9月19日月曜日

谷川俊太郎と谷川徹三、そして宮澤賢治

2016919日(月)

名古屋・東別院イーブルなごやにて、
あいち文学フォーラム主催イベント「谷川俊太郎と谷川徹三そして宮澤賢治」を行いました。
講師はあいち文学フォーラム代表・市川斐子氏。


有名な「雨ニモマケズ」が書かれた日、賢治の死から
「雨ニモマケズ」手帳の発見までの解説をしました。

次に、谷川徹三(谷川俊太郎の父親)と「雨ニモマケズ」との関係を解説しました。

谷川徹三は愛知県常滑生まれの哲学者で、文芸・美術・宗教・思想など広範な評論活動を行う一方、美術・骨董・茶道にも幅広い見識を持ち合わせた人です。
宮澤賢治を非常に尊敬しており、その評論や、雨ニモマケズの批判に対して論争もしました。

「『雨ニモマケズ』は『詩を書くというような気持でなく、もっとじかに、
自分の心の奥の最も深い願いを、自分自身に言い聞かせるというような気持で書かれた』」
「単純素朴な言葉の中に複雑な思念を蔵しているように、その謙虚な願いと祈りの中に、この詩は強い使命感をひめている」(谷川徹三『宮澤賢治の世界』より)

そして、『二十億光年の孤独』を編み出した息子・俊太郎を絶賛していました。
作家の阿川弘之は「谷川徹三先生の最高傑作 教育者谷川徹三の最大の成果 令息俊太郎の詩であり 詩人谷川俊太郎その人ではありませんでしょうか」と、谷川徹三への弔辞で残しています。

市川さんは、2年前に岩手県を訪れ、宮澤賢治ゆかりの地を訪ねました。
谷川徹三の揮毫した賢治碑や、その碑の所以の解説をしました。
そして、谷川俊太郎もこの地を訪れたそうです。
その記念写真は、「石と賢治のミュージアム」に飾られています。

 

 谷川俊太郎著『ぼくはこうやって詩を書いてきた』によれば、
「父(徹三氏)がこの碑の文字を書斎で書かれて置いてあったのを見て感動で涙が出た」
とのことです。

「賢治の<まずもろともにかがやく宇宙の微塵となり無方のそらにちらばらう>と
いう文章は、自分のどこかにすごく触れることばなんです」
(『ぼくはこうやって詩を書いてきた』)より

講座の合間には、文学フォーラムメンバーによる朗読も行いました。
『アンパン』、『二十億光年の孤独』、さだまさし著『いつも君の味方』より、谷川徹三との出会い。『「私」に会いに』、『こころの色』。

後半は、谷川徹三のふるさと・常滑と、その略歴の解説をしました。

京都大学で西田幾太郎に師事、学生時代に、多喜子夫人に出会い、結婚。
法政大学で教授を務め、交友関係は、有島武郎、志賀直哉、和辻哲郎、柳宗悦、岸田劉生など。
息子の俊太郎は、父と母との恋文を編集し『母の恋文』として出版し、
父・徹三の審美眼を、『愛ある眼 父・谷川徹三が遺した美のかたち』で著しています。

講座の最後は、愛知県にある谷川俊太郎の詩碑についてです。


あまり知られていませんが、谷川俊太郎の詩碑が愛知県にあります。
その場所は、蒲郡市・三ヶ根山の頂上・三ヶ根観音のちかくの「わらべの小径」。
三河湾を見晴らせる眺めの良い場所に「こころの色」の詩碑が建立されています。

さまざまな巡りあわせから、詩碑設立の運びとなり、
谷川氏本人も、平成19年に建立された除幕式に立ち会ったそうです。


父・谷川徹三、息子・谷川俊太郎。そして、宮澤賢治。
三者の情熱ある生涯が織りなした物語を、参加された方々は熱心に聴き入っていました。