2018年3月21日水曜日

尾張藩士末裔からの聞き取り


20183月20日

愛知県内の某所にて、尾張から八雲町への入植者の末裔・岡野良一氏から聞き取りをしました。



岡野氏は、昭和5年・北海道八雲町生まれで、昭和24年に名古屋大学に入学。
坂田昌一教授のもとで物理学を学ぶために名古屋へ移り住みました。



岡野氏の大伯父・頼隆が第一回基幹移住者として北海道・遊楽部(ユーラップ)と呼ばれる未開の地へ単身移住したのが、明治11年(1878年)。
ユーラップとは、魚が多くいるところ、という意味です。

尾張藩主・徳川慶勝は、その新天地にスサノオノミコトが詠んだ「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を」から引用し、「八雲(やくも)」と名付けました。
以来、尾張から八雲へ入植する世帯が続きました。



現在の愛知県東郷町・和合知々釜にあった私塾・和合書院から、尾張藩士の子弟を中心とした世帯が続々と八雲町へ移住しました。



岡野氏は、名古屋に引っ越したとき、その跡地の隣に住んでいたそうです。



聞き取りでは、数多くのエピソードが語られました。



城山三郎氏が「冬の派閥」の執筆のため取材を受けたこと。タイトルは「冬の派閥」ではなく、本当は「北の砦」としたかった、と語っていたこと。
尾張藩の佐治為泰が江戸城明け渡しの際、整然と台帳を整えて任務を遂行したため、西郷隆盛はそのことに感銘を受け、刀を預けて城内の案内を頼んだこと。
岡野氏の祖父が、日清戦争における乃木希典の采配を批判していたこと。
幕末に起こった青松葉事件を、尾張藩士の末裔としての思いを語ったこと。その後の廃藩置県にいたるまでの、薩長にたいする思いを語ったこと。



尾張と八雲との関係も語られました。

尾張からの入植者と、先住民のアイヌとの関係はすこぶる良かったこと。
「~さん」を「~そん(尊)」と呼ぶなど、尾張の武士ことばが、八雲に息づいていたこと。
また、八雲に移住した佐治為泰氏と、岡野氏の曽祖父・頼氏が手がけた鮭の孵化事業が成功したこと。



まだまだ八雲に関する面白いエピソードがあるので、なんとか語り継いでいきたい、と話されていました。



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