2022年3月14日月曜日

奥山景布子 文学講座・作者が語る「流転の中将」

 

2022313日(日)

名古屋市・ルブラ王山にて、あいち文学フォーラム主催イベント

奥山景布子 文学講座『作者が語る 流転の中将』を行いました。



2021年に刊行された『流転の中将』(PHP研究所)に、2017年に刊行された『葵の残葉』(文春文庫)と合わせて講演をされました。

〇『流転の中将』会津藩・松平容保(かたもり)の弟で、桑名藩主・松平定敬(さだあき)。

兄と共に徳川家のために尽くそうとしたゆえに、越後、箱館、そして上海にまで流浪した男の波乱に満ちた人生と秘めたる想いに迫る。

〇『葵の残葉』兄弟の誰か一人でも欠けていれば、幕末の歴史は変わった─。石高わずか三万石の尾張高須の家に生まれた四兄弟は、縁ある家の養子となる。それぞれ尾張藩慶勝(よしかつ)、会津藩容保、桑名藩定敬、そして慶勝の後を継いだ茂栄(もちはる)。幕末の激動期、官軍・幕府に別れて戦う運命に。埋もれた歴史を活写する傑作長篇小説。


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以下、要約と抜粋

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・流転の中将は、葵の残葉を書いているときに、これはもう一本書かないと完結しないという思いで書いた。

・徳川家康が天下人となり、江戸に幕府を開いて以来、世襲制となり、将軍家の血筋を絶やさないため必要な知恵が、分家をつくること(尾張、紀州、水戸の御三家)。

・最後の将軍・徳川慶喜は、毀誉褒貶のある人で、判断の正しいことをしたと思う側面があるが、まわりの人を振り回した、という側面もある。作品内ではどちらかというと悪者として描いている。

・大老・井伊直弼は、諸大名が政治に口を出すのは良くないと考えていた。意見を述べようと思って、呼ばれもしないのに江戸城に登城した慶勝を、やってはいけない押しかけ行為だとして、隠居・謹慎処分にした。この事件が、のちの安政の大獄の発端となった。

・治安の悪くなった京都で、幕府の意見を代表して力を振るうべく、一会桑体制(一橋・会津・桑名)が確立された。そして、長州征伐の総督として慶勝を任命した。慶勝は、海外の事情に精通しており、内戦をしている場合ではないので、戦乱を起こさず穏便に済まそうと考え、薩摩藩の西郷隆盛に協力を仰いだ。だが慶勝の考えは、長州を征伐したい一会桑の考えと相容れず、慶勝は一会桑と袂を分かつこととなった。

・鳥羽伏見の戦いで不利を感じた慶喜は、軍艦・開陽丸で江戸へ容保と定敬とともに、極秘で逃げた。ここで慶喜が退かなかったら、激しい内乱に発展していたかもしれない。しかし、逃げるつもりがなかった容保と定敬にとっては、非常に不本意であった。

・慶喜が逃げたことを知って勢いづいた新政府軍は、一会桑を含めた幕府方の重役たちを朝敵(賊軍)に指定した。それに伴って、桑名城陥落の命令が下された。距離が近いため、惣宰(そうさい)酒井孫八郎は、定敬不在のなか家名存続のため恭順を決定した。



・一会桑と内通しているのでは、と朝廷に疑惑の目を向けられた尾張藩は、恭順の意を示すため、尾張徳川家史上最大の悲劇「青松葉事件」を引き起こす。旧幕府派の家臣14人を粛清した。この事件はこれまであまり語られることはなく、名古屋城に青松葉の碑があるが、ほとんど知らずに素通りされている。

・なぜ新政府軍は、旧幕府側の抵抗を受けず、たやすく京から江戸まで行けたのか?それは尾張藩が、迷っていた諸藩に使者を送って、新政府側に従っていることを伝え、攻撃しないことを誓うよう、七百五十通におよぶ勤王証書を募った。だから、新政府軍は争いなく無血開城を成し遂げた。

・定敬は、抗戦を胸に秘めつつ、会津→柏崎→箱館→横浜→上海と流転を続けた。朝廷にも幕府にも忠誠を尽くしたのに、なぜ自分は朝敵とされているのか理解できなかったのではないか。

・惣宰の酒井孫八郎は、当時のことを克明に日記に残しているが、定敬が横浜に着いてから約三週間、何も記述がない。どこで何をしていたか、誰も語っていない。作者はとある仮説を立てて、その仮説に従って書いた。妄想ではなく、あらゆる説の中のひとつを採用して、小説として書いた。







〇質疑応答

・定敬が平民への転籍を願い出た理由は?

─いろいろ考えがあるが、流転している中で、庶民の生活を見て、もう少し自由に行動したい気持ちがあったのではないか。

〇福島で定敬の足跡を訪ねてみたい。

─桑名藩士が戦いに参加した碑は残っているが、定敬がどのような動きをしていたかは、わかる時とわからない時のものがあるが、あちこち移動していたことは間違いない。

〇城山三郎「冬の派閥」で描かれた青松葉事件と、奥山先生の作品との関わりは?

─最初のきっかけは、NHKの番組で慶勝のことを知ったことで、それまでは幕末を作品に扱うことに抵抗があった。しかし、慶勝のことを知ってから、小説に書きたいと思うようになった。知人に「冬の派閥」を頂いてから、徳川美術館で取材することになった。幕末の史料は、慶勝の写真技術など、現在でも新しいものが発表され、わかってきたものがある。そこも生かして新しい形に書き換えるのも、私の使命だと考えて書いてきた。

〇名古屋が明治以降、取り残されたような状況にあるのは、慶勝の態度にあるのでは?

─慶勝の決断は、後に大きな禍根を残し優秀な人材を失って、家中の雰囲気も重くなった。やむを得ないことだが、尾張にとっては痛手だったのでは。その中でも救いなのは、定敬が出頭した後、茂栄と慶勝が、定敬の身の上を心配する書状を送りあっていたこと。お家騒動で争ったが、家の上に立つという立場にあって、色々なことを吞み込んでいかなければいけないと考えていたのだろう。大きな犠牲があったが、明治政府ではあまり重職に就いている人がいないことへの後ろめたさが、取り残された理由なのでは。





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