2017年6月10日土曜日

名古屋文学散歩

2017年6月10日(土)

あいち文学フォーラム主催のイベント・「名古屋文学散歩」を行いました。

名古屋ゆかりの文学の地を、小型バスで巡る一日です。

始めに、案内人の山下達治氏の解説を受け、それからバスで各地をまわります。




二葉亭四迷の旧居址(堀川日置橋あたり・紫川と思われる 玄蕃新地 葛町)
(現・中区松原3丁目)1868~1872まで名古屋に居住。



『僕が九才か十才のときだつたと思ふ、名古屋の小学に通つてた頃、或日の事に学校から帰つて来ると、唯有る川縁で大勢の人群りがしてる。
何だらうと人を掻退けて頭を突込んで見ると水死だ。既に菰を引掛けてあつたから顔は見えなかったが、膝から下は出て居たので、善く見ると二人だ。』
(「巨匠断片」明治40年・朝日新聞)



中勘助「銀の匙」ゆかりの地(水主町 廻間町)
(現・中区大須1丁目 松原1丁目 大須スケートリンクの近く)



『伯母さんの住んでいるのは「お船手」といって旧幕時代に藩の御船手組のいたという川ばたの小さな家のたてこんだ一郭であった。
(略)自分よりずっと背が高くなった私を肩からお賓頭盧様(びんつるさま)みたいになでまわした。
そうしてひとが消えてなくなりでもするかのようにすこしも目をはなさず「まあ、そのいに大きならんしてちょっともわかれせんがや」といいながら火鉢のそばにすわらせ、挨拶もそこそこにもっとなでたそうな様子で「ほんによう来とくれた、まあ死ぬまで会えんかしらんと思っとったに」と拝まないばかりにして涙をふく。
(「銀の匙」大正2年・朝日新聞)



夏目漱石「三四郎」ゆかりの地(笹島停車場前あたりと思われるが諸説あり)
(現・中村区名駅南1丁目)



『九時半に着くべき汽車が四十分ほど後れたのだから、もう十時は過っている。けれども暑い時分だから町はまだ宵の口のように賑やかだ。
宿屋も眼の前に二、三軒ある。ただ三四郎にはちと立派過ぎるように思われた。
そこで電気燈の点いている三階作りの前を澄まして通り越して、ぶらぶら歩行いて行った』
(「三四郎」明治41年・朝日新聞)



途中で美味しい日本料理の昼食をいただきました。





小酒井不木(こさかい ふぼく)宅跡(中区御器所町北丸屋)
(現・昭和区鶴舞4丁目)



『小酒井さんといへば、私はすぐこの椅子を思ひ出す。私の頭の中では、この持主と品物とが、まるで一つの物の様に仲よしになつてゐる。
それは若しかしたら、小酒井さんが、アノ肱掛(ひじかけ)椅子と同じ様に、いつも変らず親切で、肌触り柔かで、思ひやりが深くて、抱擁力に富んでゐた、その相似から来てゐたのかも知れない。
肱掛椅子の凭(よ)り心地、といふ比喩は故人に対して礼を失するかも知れぬけれど。』
(江戸川乱歩「肱掛椅子の凭り心地」昭和4年・新青年)



平和公園にて、渡辺新左衛門の墓




『「朝命というのは、どうしても腑に落ちない。いかなる理由による朝命なのか、冥土の土産に、ぜひ聞かせてほしい」
若侍たちをにらみつけ、強い口調でいった。このため、二人の者が走って行った。そのまま、時間が流れた。だれも説明に来る様子はない。
西からは鉛色の雪雲が這うようにのびてきて、日はすっかり暮れようとしていた。
目付は、処刑を命じた。まず、渡辺新左衛門の首を新野久大夫が打ち落とした。』
(城山三郎「冬の派閥」昭和56年・中日新聞)



徳川宗春(1696~1764)の墓




『宗春は、施政の心得は、「慈忍」の二字に尽きると考え、その二字を大書して床の間に掲げた。
しかも、「慈」の上には太陽、「忍」の上には月を描かせた。慈愛の心は、太陽のように領内の隅々まで照らすべきであり、忍耐の念は、月のように静かにわが心に満ちよ、というのである。
宗春が自ら書いた「温知政要」には、そうした精神が溢れており、慶勝の心をとらえた。』
(城山三郎「冬の派閥」)



名古屋の街は、濃尾地震や名古屋大空襲からの復興・開発を経て、街並の様子も大きな変貌を遂げ、歴史を物語る場所が目立たなくなりました。
それでも名古屋には、多くの人に知られずに眠っている場所が、まだまだたくさん存在しています。
それらの埋もれた歴史を掘り起こし、また、過去の縁(よすが)をしのぶ、発見に満ちた一日でした。




2017年1月8日日曜日

二葉館の読書会・遠藤周作「男の一生」

名古屋市東区の二葉館で、読書会を行いました。



テキストは遠藤周作「男の一生」(上巻)。
戦国時代の武将・前野将右衛門長康を描いた、壮大な歴史小説です。



織田信長に仕えるも、暇を出されてしまい、やがて親友の蜂須賀小六と共に木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)に仕えます。

野武士から成り上がり、仲間と共に出世していくところは、血沸き肉躍る展開で、読んでいてとても楽しいです。

恋に苦しんだり、人並みに悩みを抱えるなど、人間くさい部分もみられ、面白い作品です。

主人公の生まれ育った地が現在の愛知県江南市なので、木曽川をはじめとした近隣の地名が数多く出ており、まさに愛知の文学、ということで、議論もとても楽しく盛り上がりました。




藤吉郎や小六と共に出世して、様々な戦をするところは、戦国時代のおもしろさのエッセンスが詰まっています。将右衛門の弱さも描いているところも共感が持てて良かったです。



終了後は名古屋駅へ移動して、食事会。
とっても美味しかったです。

2016年12月11日日曜日

谷川俊太郎・北川透 対話 講演レポート

2016年12月10日(土)

名古屋・東別院イーブルなごやにて、あいち文学フォーラム主催のイベント
詩人・谷川俊太郎氏と、文芸評論家・詩人の北川透氏との対話「〈ミライノコドモ〉へ詩の元気を!」を開催しました。





ゆったりと椅子に座って、それぞれの詩人としての生涯、在り方を問います。
地方各地の文学館についての話・・・静岡県・三島にある大岡信(まこと)ことば館や、山口県湯田温泉の中原中也記念館、愛知県に文学館に存在しないことなどの、
文学館を維持し続けることの難しさ。



戦前のラジオを収集しておられ、180ものコレクションを有し、フォルクスワーゲンのシンプルなデザインに魅かれた話。
大岡信との交流関係について、幼少より秀才で知られた大岡氏に、兄貴分として教えてもらった話。
谷川氏がいつまでも元気で詩を書き続けていることの元気の秘密について。
数年で膨大な詩集を出し続けること、話していることがそのまま詩になっていて、それでいて非常に深い現代詩となっていること。





「詩に就いて」<私、谷川>の朗読


「十代の私は何も考えずに書いていた
 雲が好きだったから雲が好きだと書いた
 音楽に心を動かされたらそれを言葉に翻訳した
 詩であるかどうかは気にしなかった
 ある言葉のつながりが詩であるのかないのか
 そんなことは人が勝手に決めればいい
 六十年余り詩を書き続けてきて今の私はそう思う」(一部抜粋)









ポエム(詩作品)とポエジー(詩情)との違いの話。





<その男>の朗読



「これは俺が書いた言葉じゃない
誰かが書いた言葉でもない
人間が書いたんじゃない
これは「詩」が書いた言葉だ>
内心彼はそう思っている
謙遜と傲慢の区別もつかずに」(一部抜粋)



「私」とは何か?という問題について。自分の書いた詩が金になった話。
心と魂という言葉のちがい、心とは個人に属している、魂は個人を超えた生き物全体、存在全体に関わっていくもの。





二人の世界が繰り広げられ、対話は深まっていきます。
二人の対話が深まるにつれ、対話に耳を傾ける聴衆の熱心さが伝わってきます。





「トロムソコラージュ」<臨死船>の朗読

「知らぬ間にあの世行きの連絡船に乗っていた
けっこう混みあっている
年寄りが多いが若い者もいる
驚いたことにちらほら赤ん坊もいる
連れがいなくてひとりの者がほとんどだが
中にはおびえたように身を寄せ合った男女もいる」(一部抜粋)



<臨死船>と宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」について。



<ミライノコドモ>の朗読

「キョウハキノウノミライダヨ
アシタハキョウミルユメナンダ
ダレカガアオゾラヤクソクシテル
ミドリノノハラモヤクソクシテル
コレカラウマレルウタニアワセテ」(一部抜粋)


詩の朗読を谷川氏みずからが語る場面は、会場が熱気の渦のような雰囲気で、いまここでしか為し得ない、まさにライブそのものでした。

二人とも語っているのが楽しくてしょうがない。そんな対話を間近で聴けた嬉しさでいっぱいのイベントでした。

対話を聴いて、とても勉強になり、一期一会のまたとない、貴重な体験をさせて頂きました。



2016年11月5日土曜日

谷川俊太郎・北川透 <ミライノコドモ>へ詩の元気を! 対話




谷川俊太郎・北川透 <ミライノコドモ>へ詩の元気を! 対話

日時:2016年12月10日(土)
   13時受付開始 / 13時30分開演~16時終演

会場:イーブルなごや ホール(名古屋市男女平等参画推進センター・女性会館)
   名古屋市中区大井町7番25号 TEL 052-331-5288
入場料:2,000円 (全自由席)
  ※当日も受け付けますが席数に限りがあるため、事前に入場券をお求めください。

■お申し込み・入場券のお求め
<E-mail>aichibungaku@yahoo.co.jp または <Fax>052-613-8551(市川)へ
名前・住所・電話番号を記入、お申し込みの上、
ゆうちょ銀行「払込取扱票」にて下記口座にお振込みください。
受領証をもって入場券とさせていただきます。
 ※締め切り 11月25日(金)
  振替口座 00890-0-136146 あいち文学フォーラム

■お問い合わせ
 Tel 090-5865-0089(市川) 090-7043-0159(上中)
 〒453-0013 名古屋市中村区亀島1-11-11

 アートハウスあいち内 あいち文学フォーラム事務局


谷川俊太郎(たにかわ しゅんたろう)
詩人。1931年東京都生まれ。
1952年第1詩集「二十億光年の孤独」を刊行。1962年「月火水木金土日のうた」で第4回日本レコード大賞作詞賞、以後「マザーグースのうた」で日本翻訳文化賞、「日々の地図」で読売文学賞、「トロムソコラージュ」で第1回鮎川信夫賞など受賞、著書多数。詩作のほか、絵本、エッセイ、翻訳、脚本、作詞、近年は詩を釣るiphoneアプリ「谷川」、郵便で詩を送る「ポエメール」など、詩の可能性を広げる新たな試みにも挑戦している。近著に「ミライノコドモ」他。哲学者の父・徹三は常滑市出身で愛知五中(現・瑞陵高校)卒。

北川透(きたがわ とおる)
詩人・文芸批評家。1935年碧南市生まれ。愛知学芸(現・教育)大学卒業後、豊橋で1962年から1990年まで、詩と批評誌「あんかるわ」を編集発行し詩作、評論の世界をリード。下関へ移住し、梅光学院大学教授などもつとめ、「北川透・詩論の現在」全3巻で第3回小野十三郎、詩集「溶ける、目覚まし時計」で高見順賞、「中原中也論集成」で藤村歴程賞、本年6月、中日文化賞。現在「北川透現代詩論集成」全8巻刊行中。評論「谷川俊太郎の世界」など著書多数。

2016年9月23日金曜日

三ヶ根山・わらべの小径をめぐる旅

愛知県の蒲郡市と幸田町の間にある三ヶ根山。



かつては三河湾を見晴らす週末の保養地として栄えていましたが、現在は展望台もロープウェイも取り壊され、廃墟が点在する場所となっています。

ここには比島(ひとう)観音という、太平洋戦争でのフィリピン戦線で亡くなった51万8000人もの戦没者を祀った無数の鎮魂碑があります。


ぼけ封じ観音で知られる三ヶ根観音のちかくにある「わらべの小径」。
ここを歩くと、思わず笑みを浮かべるような、心なごむかわいらしい石の彫像や碑が数多く並んでいます。

天気が良ければ、渥美半島が見晴らすことができる風光明媚な丘。

ここに谷川俊太郎の碑が建てられています。
碑文の詩は「こころの色」。




こころの色(抜粋)

世界はみんなのこころで決まる
       世界はみんなのこころで変わる。
あかんぼうのこころは白紙
      大きくなると色にそまる
私のこころはどんな色?
      きれいな色にこころを染めたい
きれいな色ならきっと幸せ
      すきとおっていればもっと幸せ

      「法句経」より         谷川俊太郎



この碑の建立に携わった人物は、森永アサヱさん。



碧南市在住の女性で、22年前まで養護老人ホームで勤務していました。

現在は「ひがんばなの会」という永代供養墓建立の団体の代表をされています。


8年前、知人の石材店で石を買い取り、ほどなく森永さんが通う詩の朗読サークルで谷川氏の従兄弟の方と知り合いになりました。

ご縁とあって、その方に詩碑のことを相談したところ、谷川氏へ連絡して下さり、直接お会いする機会に恵まれ、本人より快諾を得ました。

除幕式には、仕事で名古屋を訪れた谷川氏が、わずかに空いた30分の時間内に間に合わせ来られたそうです。




谷川氏との除幕式までのお話とともに、「ひがんばなの会」の活動のエピソードも多く聴かせていただきました。

 


老人ホームに勤務しているとき。三ヶ根観音や比島観音を訪れる人たちに、なにかできることはないかと思った森永さんは、空いた場所でお茶を振る舞うボランティアを始めたところ、大変に好評をいただき、現在まで至っているそうです。

太平洋戦争で殉死された戦没者の方々は、自分を生み育ててくれた母を想い、また妻子を想いながら殉死されたと思われることから、多くの方々の願いとともに建立された「女の墓碑 永代供養墓」。

亡くなった後の墓について、人知れず抱く悩みや不安を解消するべく、有志とともに立ち上げた「ひがんばなの会」には、人々の「悲願」と「彼岸」の意味が込められているとのこと。

 

谷川氏の飾らない人柄と、森永さんの快活な人柄を物語るエピソードではありませんか。




森永さんと、「ひがんばなの会」設立前からの有志・中村スズ子さんと。

 

あいち文学フォーラムは、愛知県に文学館や碑を作るとともに、愛知文学の振興を目的に設立した民間団体です。

ひとりひとりが素人で、できることから手探りで活動しています。

私たちの活動に大きな励みと学びをもたらしてくれた、とても意義深い一日でした。


2016年9月19日月曜日

谷川俊太郎と谷川徹三、そして宮澤賢治

2016年9月19日(月)

名古屋・東別院イーブルなごやにて、
あいち文学フォーラム主催イベント「谷川俊太郎と谷川徹三そして宮澤賢治」を行いました。
講師はあいち文学フォーラム代表・市川斐子氏。


有名な「雨ニモマケズ」が書かれた日、賢治の死から
「雨ニモマケズ」手帳の発見までの解説をしました。

次に、谷川徹三(谷川俊太郎の父親)と「雨ニモマケズ」との関係を解説しました。

谷川徹三は愛知県常滑生まれの哲学者で、文芸・美術・宗教・思想など広範な評論活動を行う一方、美術・骨董・茶道にも幅広い見識を持ち合わせた人です。
宮澤賢治を非常に尊敬しており、その評論や、雨ニモマケズの批判に対して論争もしました。

「『雨ニモマケズ』は『詩を書くというような気持でなく、もっとじかに、
自分の心の奥の最も深い願いを、自分自身に言い聞かせるというような気持で書かれた』」
「単純素朴な言葉の中に複雑な思念を蔵しているように、その謙虚な願いと祈りの中に、この詩は強い使命感をひめている」(谷川徹三『宮澤賢治の世界』より)

そして、『二十億光年の孤独』を編み出した息子・俊太郎を絶賛していました。
作家の阿川弘之は「谷川徹三先生の最高傑作 教育者谷川徹三の最大の成果 令息俊太郎の詩であり 詩人谷川俊太郎その人ではありませんでしょうか」と、谷川徹三への弔辞で残しています。

市川さんは、2年前に岩手県を訪れ、宮澤賢治ゆかりの地を訪ねました。
谷川徹三の揮毫した賢治碑や、その碑の所以の解説をしました。
そして、谷川俊太郎もこの地を訪れたそうです。
その記念写真は、「石と賢治のミュージアム」に飾られています。

 

 谷川俊太郎著『ぼくはこうやって詩を書いてきた』によれば、
「父(徹三氏)がこの碑の文字を書斎で書かれて置いてあったのを見て感動で涙が出た」
とのことです。

「賢治の<まずもろともにかがやく宇宙の微塵となり無方のそらにちらばらう>と
いう文章は、自分のどこかにすごく触れることばなんです」
(『ぼくはこうやって詩を書いてきた』)より

講座の合間には、文学フォーラムメンバーによる朗読も行いました。
『アンパン』、『二十億光年の孤独』、さだまさし著『いつも君の味方』より、谷川徹三との出会い。『「私」に会いに』、『こころの色』。

後半は、谷川徹三のふるさと・常滑と、その略歴の解説をしました。

京都大学で西田幾太郎に師事、学生時代に、多喜子夫人に出会い、結婚。
法政大学で教授を務め、交友関係は、有島武郎、志賀直哉、和辻哲郎、柳宗悦、岸田劉生など。
息子の俊太郎は、父と母との恋文を編集し『母の恋文』として出版し、
父・徹三の審美眼を、『愛ある眼 父・谷川徹三が遺した美のかたち』で著しています。

講座の最後は、愛知県にある谷川俊太郎の詩碑についてです。


あまり知られていませんが、谷川俊太郎の詩碑が愛知県にあります。
その場所は、蒲郡市・三ヶ根山の頂上・三ヶ根観音のちかくの「わらべの小径」。
三河湾を見晴らせる眺めの良い場所に「こころの色」の詩碑が建立されています。

さまざまな巡りあわせから、詩碑設立の運びとなり、
谷川氏本人も、平成19年に建立された除幕式に立ち会ったそうです。


父・谷川徹三、息子・谷川俊太郎。そして、宮澤賢治。
三者の情熱ある生涯が織りなした物語を、参加された方々は熱心に聴き入っていました。